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東京両国橋之図

明治8年(1875年)・作。
井上茂兵衛出版、他に萬代橋と永代橋も描かれている。本図には、夜景として空に花火を入れた摺りもあるらしい(出典)。

両国橋は錦絵の題材に繰り返し採用されてきた。明暦の大火(明暦3年・1657年)を契機に万治2年(1659年)に架橋された。当初の位置は現在よりやや下流で、大橋と呼ばれていたが、隅田川が武蔵国と下総国の境界であったことから「二州橋」とも称された。その後、橋が武蔵と下総の両国を結ぶことにちなみ、正式に「両国橋」と改められた。

橋の両側には火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わいを見せた。両国の川開きは毎年5月28日に行われ、納涼期間中(8月28日まで)は有名な両国の花火が打ち上げられ、江戸の庶民に大いに親しまれた(出典)。

赤絵と呼ばれるように、明治の錦絵ではの赤や紫が目立つようになり、中でもアニリン染料を使った赤が際立った。江戸末期になるとベロ藍やアニリン(赤)、ムラコ(紫)といった人工顔料が輸入され、安価で発色が良いことから多用されるようになった。明治初期の錦絵はその派手な色合いが理由で現代ではあまり人気がないが、野々上慶一は『文明開化風俗づくし : 横浜絵と開化絵』の中で、「あの刺激的な色彩には、溌溂とした明治の息吹やざわめき、そして明治らしさの匂いを感じ取ることができる」とも述べている(出典)。この赤はたいへん色が移りやすく、湿気とともが移ってしまっていた。間に奉書紙を挟む必要がある。

応需大蘇芳年
依頼されて描かれたらしい

芳年は基本的に人物画の人で、風景画はあまり得意でないと思う。ただ、長く住んでいた浅草墨田の景色はしっかりと素晴らしい作品に仕上げている。

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