中山公営中議論之圖(十一代徳川家斉公)
芳藤画。
十一代将軍徳川家斉は、全十五代の将軍の中で最も長期間在職し、初期は真面目に政務を行ったが、後に松平定信による寛政の改革を招いた。本人は大御所時代と揶揄される贅沢な生活を送り、大奥の最盛期や華やかな町人文化を築いた一方で、幕府財政を破綻させて江戸幕府崩壊に繋がった(出典)。
家斉の寵愛を受けた側室・専行院の父である日純 (中山門流)は、住職を務める中山法華経寺の智泉院を将軍家の御祈祷所にし、大奥の女中たちが息抜きに訪れるよう仕向けた。しかし、十二代将軍家慶に代わり水野忠邦が天保の改革を始めると、日純は綱紀粛正のため捕縛され、遠島に処される前に獄死した。