縷言

死にたい、がぼんやりと頭を覆うようになってから2年になる。激しい苦しみではないけれど、徐に酸欠になっていくような、そんな感覚に支配されていることを忘れようとして、結局ふと思い出す。その原因はなんとなくわかっていて、それこそ死にたくなるほど恥ずかしいが故に明確な言葉にしてこなかったが、後回しにするのも限界が来てしまった。いい加減、自分に向き合う時だ。
原因はおそらく三つある。

一つ目は、創作活動ができなくなったことである。昨年は、CDを1枚完成させ、一つ夢が叶った。10曲入りというボリュームで、アマチュアなりに頑張ったと思うが、それは苦しみの連続だった。歌詞を書くにも曲をつけるにもああでもないこうでもないと悩み抜き、どこかで諦める。録音してミックスして、という過程も素人には大変で、そうかといってこんな独り善がりの活動に誰かを付き合わせるのは気が引ける。イメージばかりが増えていき、それが形になったときどんなに達成感に満たされるかも知っているが、その道程の長さを既に嫌というほど思い知ってしまった。
それ以上に、ずっと目を逸らし続けてきた事実がある。私はとにかく臆病者だ。それゆえ、自分の作品をほとんど公開してこなかった。不快感を与えるならまだいい、歯牙にも掛けられないことが怖かった。自分の作品のようなものが、世に何の影響も与えないことを信じたくなかった。心のどこかで、青臭い自分が、未だに「夢」を握りしめたままなのだ。結局、根幹が全く成長していない自分が本当に嫌いで、勝手に苦しくて、死にたくなる。

二つ目は、仕事で自分が迷惑をかけてばかりということである。社会人2年目ももうすぐ終わろうとしている中、振り返ってみると、一つもファインプレーのない2年間だった。それどころかできないことが大半で、お尻を拭いてもらってばかりだ。迷惑をかけすぎて、凹んで、でも凹むのは自分を過大評価しているからだと気づいて、「できる自分」を諦めて、ヘラヘラして自分を守って、でもたまに、やっぱり胸が苦しくなるときがある。
結局、それは「できる自分」でいたいことの裏返しだと、私は認めなくてはならない。井の中の蛙は大海を知って、それでもなお隙を見て優越感に浸りたいだけなのだ。他人と比べないふりをして、本当は「躍起になって他人と比べている他人」と自分を比べて、馬鹿にして、自分は安心したいだけなのに。外面と内面との激しい差に辟易して、でも聖人になんて到底なれなくて、死にたくなる。

三つ目は、全てに意味を求めてしまうことである。結局はこれが諸悪の根源なのだ。創作活動をすることで、何かを生み出している人間には生きている意味があると思い込んでいる。優秀な人間でいることで、自分には生きている意味があると思い込んでいる。こんなグロテスクな思想が一番嫌いなのは、自分自身否が応でもその思想に支配されているからだ。
本当は生きていること自体に意味なんてない。何かを生み出していない人は生きている意味がない? 優秀でない人間は生きている意味がない? そんな思想が罷り通っていいはずがないのに、心のどこかでその思想に縋りついている自分がいる。これは殺人未遂と言って全く過言ではない。価値のない人間がいると思っているのだから。皮肉なことに、その罰が自分に下される時が来て、自分の無価値さに死にたくなる。

創作活動、優秀さ、意味。無意識レベルで私はこの三つに執着している。どんなに見窄らしくなってもいいから、私はこれらを手放したい。この羞恥から、苦悩から解放されたい。そのために、私は具体的に何をすればよいのだろう。
創作活動…作曲や執筆はもう辞める。その代わりにたくさん音楽を聴き、本を読む。数多ある世界をたくさん摂取して、空っぽの自分に一つずつ街を作っていきたい。最初から街を作るつもりではなく、気軽に始めて楽しみたい。もしつまらなくても、次の作品に触れてみたらいい。その過程で感想文を綴ってみることは、それはそれで遠慮しなくてよいと思う。
優秀さ…これまで私は、高校・大学・就職と、それなりに名のあるところに所属してきたつもりだ。認めたくないけれど、明らかにそこに自負があった。だからたくさん悩んだけれど、やはり今いる組織を辞めようと思う。とても我儘なのは百も承知で、社会にいる限り優秀さというスケールで計られ続けるのならば、社会から一旦出てみようと思う。いきなりではなく、来年度1年は続けてみて、12月に辞めることを伝えよう。そのあとは2年くらいキャンピングカーで国内を巡ってみる。結構過酷だと思うけれど、1年以上ずっと考え続けているこの旅を、やってみない人生はおそらくないのだと思う。旅のあとどうするかを考えて、もういい会社には入れないだろうと悲観していたけれど、それはもう仕方ないと思う。旅の経験が手に入れば、あとはもう食い繋ぐだけの人生でもそんなに後悔はない。もしお金が貯まればまた次の旅を考えてもいいと思う。
意味…「生きている意味がなければ死んだ方がいい」から脱却するには、生きている意味がなくても生きていていいことを、自他共に認める必要がある。だから例えば、今生きていることが苦しい人の話を、ただ聞くような場を作ってみたい。別にアドバイスをするでもなく、ひたすらに聞くだけ。どんなに相手が口下手でも饒舌でも、私は人の話を聞くのが好きだ。だから相手にはたくさん話してほしいし、それによって胸に詰まった苦しみを取り除いてほしい。少しでも生きている意味を薄れさせることができたら、こんなに幸せなことはないと思う。

そんなに苦しい思いをしなくたっていい。大丈夫だよ、きっと穏やかに生きていけるよ。ずっと私はそう言ってほしかった。だから今私は裸の自分で、自分自身に語りかける。もういいんだよ。解放されたっていいんだよ。
言葉にすると、蟠りが繙かれて、それは3本の糸で構成されていることがわかった。立ち止まって言語化するということはとても大切な営みで、今後鬱屈とした気持ちに押し潰されそうなときも、こうして一つずつ理解していきたい。そうすれば少なくとも、死にたい、とまで思うことはきっとなくなるだろうと思う。

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