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Official髭男dism『アポトーシス』は私たちが今いる場所を教えてくれる(3 ver.2)

8/27 大幅に加筆しました。

この曲の主人公は「私」です。作者の藤原聡さんを投影させて、30歳既婚者とします。この「私」の一人称主観描写です。

訪れるべき時が来た もしその時は悲しまないでダーリン
こんな話をそろそろ しなくちゃならないほど素敵になったね

「私」が死の床にあり、最後の別れの言葉を家族に伝えようとしている風景が思い浮かびます。

この「ダーリン」とは誰か。この曲をさらっと聴くなら、「誰か、主人公にとっての大切な人、恋人か奥さんかな?」という程度でいいのですが、深読みするのであれば、続く歌詞の意味を考慮する必要があります。

この「〜ほど素敵になったね」という文章は、幼いと思っていた人物が成長したことに改めて目を見張る、というニュアンスです。そこで僕はダーリン=「私」の娘、と思いました。

この「ダーリン」はパワーワードです。これを言いたいための曲と言ってしまってもいいくらいです。

この楽曲の構造は次のようになります。

1A(1)-1A(2)-1B-1サビ
2A(1)-2A(2)-2B-2サビ(1)
(楽器隊ソロ)
2サビ(2)
A’リフレイン


「ダーリン」が含まれるのは1A(1)と1A(2)とA’リフレインです。これらは未来形の時制であり、「私」が老いて死を迎えるその時のことを、今の「私」が想像しています。

「私」がついつい考えてしまうのは、漠然とした未来ではなく、確実に来る別れのこと。その瞬間のシーンの中に大切な人々を思い描き、その時に感じるであろう気持ちを掴み取ろうとする今の「私」がいます。

2A(2)では、歳を重ねた「私」の自画像が挿入されます。堀込高樹さんが書きそうなちょっとシニカルでユーモラスな前段と、20代の勢いのままの聡っちゃんの文体だなぁと思う後段、このあたり未来と現在が混濁していて、空想と現実をあえてはっきり分けなくてもいい、ただふわっと抽象的に感じ取ればいいんだ、と改めて思いました。

優れた芸術表現はこのような豊かな抽象性を持っています。それをどのように解釈するかは受け手の最大の楽しみであり、そこにこそアートの真髄があります。

Bメロが果たす役割についてここで述べておきます。サビへの導入のように見えて、実は短い言葉で核心をつくようなことを言っている。ここはメロディの浮遊感も相まって、楽曲の世界を一気に広げる効果があります。

『アポトーシス』のプレゼン用企画書の見出しに相応しいキャッチになっているのですが、それだけじゃないんだなこの曲は、という含みもあって、次にサビの解釈です。

3つのサビのうち、1サビと2サビ(2)は呼応しています。印象的な同一フレーズは頭の

今宵も鐘が鳴る方角は お祭りの後みたいに鎮まり返ってる

この文章の文学性を鑑み、比喩表現として解釈すると、「鐘」は豊かさ、繁栄の象徴。「お祭り」のごとく活況を呈していたのが、最近では落日の様相である。

「鐘が鳴る」は金が成る、すなわち人々の生きる糧である職場や学校、ひいては日常生活における人の活動、雑踏、活気、景気、そういったものをひっくるめた比喩だと思いました。

ここでコロナ禍を連想せずにはいられません。かつては遅くまで賑わっていた歓楽街、商業施設、煌々と明るかったビジネス街も、近年ではそれらが色を失い、光が消え、沈静化している。これを踏まえて、続くサビの歌詞を解釈すると、

なるべく遠くへ行こうと 私達は焦る
似た者同士の街の中 空っぽ同士の胸で今
鼓動を強めて未来へとひた走る
別れの時など 目の端にも映らないように そう言い聞かすように

そんな状況でも人々は豊かさが続くことを自分に言い聞かせるように働く。いつまでも繁栄が続くことを信じたいという思いで、人が生きていく上でなにが幸せなのかと問うこともせずに。(「私」も例外ではない。)

このサビは、より大きなイメージへと繋げることができます。人類の歴史において、この文明が衰退局面に入っていて、資本主義の限界が見え、地球環境が回復不可能なまでに傷つけられて、それでも人間は今の豊かさを維持しようとする。

コロナという2020–21年現在の今の社会を映しながら、現代史という長い時間軸をも包括した表現だと思います。こうした優れた表現は、時間の経過に耐えて、長く後世の人々に響くのです。

*****

ここからは僕の妄想と思ってもらっていいです。「私」の心理を深掘りするので、作者の藤原聡さんとは切り離し、『アポトーシス』という作品における自立した人格として考えます。

僕はこの曲を聴いて、なんだか釈然としない疑問がありました。30歳の若者が、自分がまさに死のうとしている場面を想像するのはなぜだろう。確かに年齢の節目とはいえるし、このコロナ禍で、生と死について深く考えようとするムードもある。

それにしても、楽曲として、美しさ、力強さはあっても、なんだか辛気臭いし、一気に老けちゃった感じもしてしまう。アルバム曲ならわかるけどリードにしたのはどうしてだろう。

映画やドラマの脚本だったら、「私」がこのような想像をしてしまう背景としてどんなことが考えられるだろう。

それで思いついたのは「妻から、妊娠していることを告げられた。」

これで疑問が解消した気がしたのですが、これだけではまだ釈然としませんでした。2サビ(1)があまりにも辛く響くのです。ここにある感情は、悲しみ、喪失、無常感であって、新たな命を迎え入れる恐れ、期待、喜びとは相容れないと思いました。殊に印象的なのは次のフレーズです。

水を飲み干しシンクに グラスが横たわる
水滴の付いた命が今日を終える

水は生命の比喩として使われる表現です。それが失われ空になった、たった今、そこにあった気配だけ残して。これは、もしかしたら、お腹の中に宿った命が、この世界に生み出されることなく消えてしまったことを表しているのではないか。

医学的なことはわかりませんが、この細胞は、母体を守るために犠牲になったのかもしれない。『アポトーシス』というタイトルから連想されるのは、祝福された命ではなく、生命の残酷さなのだと思った時に、この「私」の辛い気持ちが理解できるような気がしました。

きっと妻はもっと辛い。かけてあげられる言葉はあるだろうか。それを探す旅に出た「私」。ここでこの曲の冒頭に戻るのです。

そんな長い旅の終わりに思ったことが2サビ(2)後半の

躊躇いひとつもなくあなたを抱き寄せる
別れの時まで ひと時だって愛しそびれないように そう言い聞かすように

妻=「あなた」を抱き寄せる、そこに言葉はない。クロージングのA’リフレインの「やっと少しだけ眠れそうだよ」に、僕は魂が救済されたことを感じました。表現するというのはこういうことだと思いました。