教育についての素朴な疑問
お品書き
記念すべき1投稿目は、
既存の教育と理想的な教育の形を言語化します。
食事のお供に、一家団欒の話のネタに、寝る前の読み物に、
読むことに費やした時間分くらいの価値はご提供できると思います(自惚れ)
では早速。既存と理想の教育における構造というか、流れを殴り書きます。
既存の教育
① 社会のマナーであると、報連相を強いる
② 報連相や質問をしたらコテンパンに論破される
③ 終いには、何で分からないのかと叱りつけ、勉強を強いる
いやいや、そんな酷いことしてないよ…。と思いながら、
してます。ガッツリ。わざとじゃないにしても、しちゃってます。
①〜③に対して、パブロフと言わんばかりに叱りつけて、
恐怖心で縛って次回から行動を強制(矯正)します。
大事なことだから、命がかかっているから、叱る人の言い分はこれです。
でもね、だからこそ、パブロフで言われたことしかしない人を量産するよりも、
もっと生産的に合理的に、教育した方が良いと思うのですよ。
教育者でもない我々は、やっぱり一般論的なところに引っ張られてしまう。
そもそも叱られてる時って頭真っ白だし、その時の話って頭に入ってないのでは?
注意障害バリバリなのに、遂行機能訓練してる感じ。意味ない気がしちゃいます。
理想的な教育
では、理想的な教育は何か。いきます。
❶ 何を学ぶかを明確にする
❷ 明確にするために、”(教育)される側”が具体的にイメージできるようにする
【方法論として、OJT、症例ベースに話をすること】
❸ まずはモデルケースを示す
❹ 勉強の仕方を多様に示す
❺ 学ぶことへの報酬が手に入ると最高(楽しい、ワクワク、仕事のやりがい)
言語化してみると、あまりに当たり前なことです。でも、できていません。
答えのような情報を教育の初期段階で提示することを、
『”される側”の思考を奪っている』という人がいます。ん?
そもそも、何を学べば良いのかが分からないと学習が始まりません。
症例報告をやりなさいと放り投げて自分で症例報告のイロハを学ばせるとします。
その先に待っているのは、頑張って作った症例報告をコテンパンにされる未来。
そこでコテンパンにされた経験から、次回以降改善しろと強要されます。What?
それなら、症例報告を一緒に作って、どういう思考回路で完成まで至るかを
具体的に、かつ、ワクワクさせるように、こちらが導く方が良いのでは?
それを最初から答えを与えるなという猿は無視です。
おおよそ理論的ではありません。猿なので。
結論
一言で表すと、ガンガン答え教えちゃおうよということです。
本質的に言うと、それを学ぶことで得る報酬(具体的には上記)を与えようよと。
”される側”の現状が『注意障害バリバリ』ならば、
注意障害のところから介入してあげましょうよ。遂行機能訓練(報連相の強要等)してもしょうがないですよ。答え教えちゃいません?
ただ、注意点が1つありまして。
これは最近結婚した浮かれポンチ大尊敬先輩に過去言われたことですが、
「やるなら最後までやれよ」です。
答えを教えることは絶対的な正解ではありません。
”される側”が能動的に勉強をして、サイクルを自分で回して、
最終的に教育を卒業するまでの1つの歯車に過ぎません。
答えを教えて最後なら、既存のパブロフ教育と変わりません。
問題なのは、
教育者に、”される側”に伴奏する覚悟と時間と熱量がない
これが理想が理想で止まってしまう原因だと思います。
これが大多数の教育者をパブロフ教育に誘う入り口だったわけです。
臨床家は教育者でもなければ、時間も心も余裕がありません。
だからパブロフ教育に落ち着きます。納得。
殴り書いている割に、ちょっと大事なこと言いました。
”される側”に伴奏する覚悟と時間と熱量がない。
逆に言ってみます。
”される側”に伴奏する覚悟と時間と熱量がある
我々の身近に、”される側”(患者)の人生に伴奏する職業がありますね。
そうです。作業療法です。
では、初回の殴り書きを結論とともに終わります。
『作業療法と教育って、本質的には一緒なんですね』
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