(令和三年七月十九日(月)聖アルセーヌ、「海の日」、等

 一九七〇年代初め、広開土王碑の読み方に疑問が提起されたことがあった。碑は一八八〇年に発見されると、碑文(ひぶん)の拓本(たくほん)が日本にもたされて軍の参謀(さんぼう)本部で解読されたのだが、その際、碑文がすり替えられ日本に都合(つごう)よく改められたのではないか、また倭が朝鮮半島で軍事行動を起こしたのではなく、逆に高句麗が海を渡って倭を討(う)ったと読める、というのである。碑文は当時の倭(わ)の動向を知るほとんど唯一(ゆういつ)の史料で、倭国の統一の時期を推定する古代史上の基本史料でもあった。しかも碑は現在の中国の集安(しゅうあん)にあって容易(ようい)に現物に見られず(一九七二年まで日本と中国は国交がなかった)、風化(ふうか)のため正確な碑文の確定も難しかった。こうして批判は多くの論争を生むことになった。研究の進展につれ、最近ではかつての読み方にそう大きな謝りはなかったとされてきているが、論争はこの時期の歴史研究をおおいに深め、私たちの古代史を見る視野(しや)を大きく広げてくれた。

 四世紀後半の倭の朝鮮出兵が事実であったとして、倭はなぜこうした行動をとったのだろうか。

 倭にとってこの地域は前述のように鉄資源や文化、技術などの供給(きょうきゅう)地であった。三世紀には比較的自由だったこの地域での交易(こうえき)は、四世紀になって百済(くだら)・新羅(しらぎ)による地域的統合が進むと、国家的統制によってしだいに排他(はいた)的になっていく。倭は軍事力でこれに介入(かいにゅう)しようとし、高句麗・新羅と対立する百済と深く結びながら出兵した。その理由はこう考えられてきている。

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 五世紀、「倭の五王(ごおう)」たちは中国の冊封(さくほう)を受けようとしてさかんに宋(そう)に遣使(けんし)したが、その主要な目的はこうした朝鮮半島での勢力の維持であった。彼らが中国に求めた称号(しょうごう)が、たとえば武(ぶ)の場合「使持節(しじせつ)、都督(ととく)倭・百済・新羅・任那(みまな)・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)七国諸軍事、安東(あんとう)大将軍、開府儀同三司(かいふぎどうさんし)・倭国三」で、そこに列挙(れきょ)した地域の軍事的優越権(ゆうえつけん)を確かめられることであったのは、この間の事情を反映(はんえい)している。また中国から認められることで立場を強化しようとする外交は、朝鮮の三国も同様に展開した。しかし、六世紀後半、結局倭はこの地域から手を引いていく(五六二年の「任那(みまな)」からの撤退(てったい))。

 百済と軍事的に提携(ていけい)しながら、また時には領土拡大に応じながら(五一二年の「任那四県の割譲(かつじょう)」)、その見返りに五経(ごきょう)博士や医・薬・易・歴などの学者の派遣を求める。こうした関係を五世紀から六世紀にかけて、倭はとり続けた。この時期、朝鮮からの到来人(とうらいじん)が倭国内で盛んに活動する。日本で最初の仏教文化である飛鳥文化の人々に負うところが大きかった。

大化の改新と朝鮮諸国

 五八九年、隋(ずい)は陳(ちん)を滅して中国を統一した。さらに六一八年、唐(とう)が隋を倒し新王朝を建てた。漢の滅亡以来、約三七〇年ぶりの大帝国の出現である。中国の政治変革と領域拡大の衝撃(しょうげき)は周辺諸国を襲(おそ)い、諸国の政治変革や争乱のきっかけとなった。とうの植民地化に対抗するためには権力の強化が必要だし、周辺諸国との抗争にも備(そな)えなくはならなかった。

 高句麗(こうくり)では六四二年、大巨の泉蓋蘇文(せんがいそんぶん)が栄留王(えいりゅうおう)とその臣下(しんか)一八〇八を殺害し、新たに宝蔵(ほうぞう)王を立てて自ら政権をとるという泉蓋蘇文の政変が起きた。その上で、高句麗は六四五年以来、唐としばしば交戦した。百済(くだら)も反唐の態度をとり、唐と結んだ新羅(しらぎ)を攻撃した。そのさなか百済の義慈(ぎじ)王のもとで皇太子(こうたいし)の扶余豊(ふよほう)が廃され、中央執政官首座(しっせいかんしゅざ)の沙宅智積(さたくちじゃく)が失脚(しっきゃく)させられる政変が起きた。扶余豊・沙宅智積らはこのあと倭に人質(ひとじち)として送られる。新羅は六四二年に百済の攻撃を受け、高句麗とも対立して危機を立たされると、翌年唐に助けを求める。しかし唐との関係をめぐる争いから、善徳(ぜんとく)女王が退位させられて新たに新徳(しんとく)王が立てられ、王孫(おうそん)の金春秋(きんしゅんしゅう)が権力を握る政変が起きた。金は大化の改新後の倭から派遣(はけん)されていた高向玄理(たかむこのげんり、たかむこの黒まろ)とともに倭に赴(おもむ)き、援助を求めて外交交渉を展開する。「大化の改新」も、こうした国際関係下で起きた政変の一つであった。

  朝鮮山国の争いは唐を交(まじ)えて深まり、百済は六六〇年新羅・唐の連合軍に敗れて滅亡(めつぼう)、高句麗も新羅・唐によって六六八年に滅亡した。新羅はさらに六十七六年に唐勢力を朝鮮半島から追って、ついに統一を完成する。新羅は倭と提携(ていけい)を策(さく)していたが、倭は百済との関係を継続し。百済滅亡後もその再興を助けようとして白村江(はくそんこう、はくすきのえ)で敗れた(六六三年の白村江の戦)。倭の朝鮮での軍事行動はこれで終わった。百済滅亡後、百済・高句麗の他から多くの朝鮮人が渡ってきた。彼らのもたらした進んだ技術、新しい学問・思想はやがて白鳳(はくおう)文化を生むもととなった。

新羅と日本

 新羅と日本との関係はしばらく途絶(とぜつ)したが、その後の新羅は唐との対決のなかで日本との対立解消を望み、六六八年から形式上日本を宗主国(そうしゅこく)とする形で使節を派遣するようになった(新羅使)。事に壬申(じんしん)の乱後、天武(てんむ)・持統(じとう)朝では唐との関係が疎遠(そえん)で遣唐使が途絶えたのに対し、新羅使は六六八年から七〇〇年までの間に二五回を教えた(七〜九世紀間の遣唐使は一五回だった)。また、日本から遣新羅使が一〇回派遣された。こうした交流を通して日本は、新羅の文化・制度を受容(じゅよう)し、また国際情報を入手(にゅうしゅ)して律令(りつりょう)国家の完成に役立てた。日本の律令(りつりょう)制は、唐の律令をもととしながらも、これを変容(へんよう)させて実施(じっし)していた新羅の制度の影響が強いと言われている。

 両国の関係は、八世紀になって新羅が唐との関係を修復(しゅうふく)したのち、日本と対等の外交を要求しはじめるとしだいに悪化した。新羅使が礼(れい)を失するとして九州の太宰府(だざいふ)などから追返される記事が記録に散見(さんけん)するようになる。七七九年に外交関係は断絶し、また八二四年以降(いこう)は朝鮮からの渡来民(とらいみん)も禁止された。しかし、これ以後も民間の交易(こうえき)はさかんで、多くの新羅商船が来航(らいこう)した。通交の主体はしだいに国家の手を離れ、民間に移りつつあった。

出典はISBN978-4-634-01640-8C7021からです。


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