9 対馬・壱岐と沖の島
日本と朝鮮を結ぶ島々
まさに飛び石のような島々だ。地図を開いて見ると、北九州と朝鮮半島とをまっすぐつなぐように、対馬(つしま)・壱岐(いき)の二島が並んでいる様子(ようす)がわかる。古来、日本と朝鮮の人々がはしきりに交流し合ってきたが、対馬・壱岐の二島はその往来のまっただ中にあったのである。
『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には、三世紀前後の対馬(つしま)の様子を次のように伝えている。「土地は山けわしく、深い林が多く、道路は禽鹿(きんろく)(鳥やけもの)の径(みち)のごとし。千余戸(せんよこ)有り。良田(りょうでん)無く、海の物を食して自活(じかつ)し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」。島全体が山がちで、水田を開くには敵さない土地から。そこで、一つには海産物で自活し、もう一つは南北に、すなわち九州から朝鮮までを船で往来して、市糴(してき)=商売をして米などを入手(にゅうしゅ)してくらしている。農耕生活が主体である東アジアの中で、漁民(ぎょみん)あるいは海女(あま)(潜水(せんすい)漁民)、そして海の商人としてくらす対馬の人々の姿が描かれているのである。
壱岐(いき)について、同じく『魏志(ぎし)』倭人伝には「三千ばかりの家有りやや田地(でんち)有りて田を耕せども、なお食するに足りず。また南北に市糴(してき)す」とある。対馬に比べて人口・耕地ともやや多いが、農耕だけで自活はせず、やはり海の商売を手掛(てが)けていたのである。
海の正倉院 沖の島
玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ周囲わずか四キロほどの孤島沖(ことうおき)の島(しま)で、不似合(ふにあ)いなほどに多数の道具類や貴重な宝物(ほうもつ)が発見されている。遺物(いぶつ)の多くは、巨岩(きょがん)のかげなどに整然と配置されている。人々が神への祈りをささげる際の捧(ささ)げ物(もの)として納めたものである。
博多(はかた)から北北東に約八五キロ。沖の島は、福岡県にある宗像(むなかた)神社の沖津官(おきつの)として、現在も禁足(きんそく)の地である。本格的発掘(はっくつ)が始まったのも、よくやく一九五四年(昭和二九)年のことだった。それにしても誰が何のために、この孤島で神を祀(まつ)ろうとしたのだろう。
古代の船と航法(こうほう)では、いかに飛び石の島々とはいえ、玄界灘(げんかいなだ)を超える旅は危険を覚悟(かくご)のことだった。人々は九州北岸から船出(ふなで)後、航海の安全を神に祈るために沖の島へ立ち寄り、宝物(ほうもつ)を捧(ささ)げたのである。島内各地で見つかる遺跡は、四世紀末から奈良時代(八世紀)にまで及んでいる。その当初から、王あるいは大王(おおきみ)クラスの人物からと思われる豪華な捧物(ほうもつ)が多い。土器や鉄製の武具(ぶぐ)・馬具の数もおびただしいが、朝鮮製と思われる金の指輪や金銅(こんどう)の馬飾り、ペルシアなどシルクロード舶来(はくらい)と思われる壺(つぼ)やガラス玉、カットグラスなど、一級品と言うべき貴重な宝物が、我々の目を引く。沖の島はまさに「海の正倉院(しょうそういん)」と呼ぶにふさわしい宝の島であり、同時に大海原(おおうなばら)をくらしの場とした古代日本の人々の、心のより所だったのである。
参考図書 森浩一編 『倭人伝を読む』(中公新書)
※出典はISBN978-4-634-01640-8C7021からです。