(仏滅、五月廿四日、ソフトクリームの日) 5 邪馬台国論争

『魏志』倭人伝

 『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記(しる)された倭国(わこく)の王都邪馬台国(やまたいこく)(音はヤマト)はどこに在(あ)る、「女王」卑弥呼(ひみこ)は何者なのかという問題は長期にわたって人々を魅了(みりょう)してきた。周知(しゅうち)のごとく所在地については畿内(きない)説と九州(きゅうしゅう)説(筑後(ちくご)あるいは肥後(ひご)の山門(やまと)など)に大別され、論争が積み重ねられて白石(はくせき)は畿内説を、国学(こくがく)者本居宣長(もとおりのりなが)は九州説を唱(とな)えた。論争は明治末年(まつねん)になってから本格化する。
 
 『魏志(ぎし)』倭人(わじん)伝からは三世紀の日本列島の自然・風俗・政治情勢などの情報を得ることができる。同期代の記録である点が律令(りつりょう)国家が編纂(へんさん)した『日本書紀(にほんしょき)』とは大きく異(こと)なるところであり、資料的価値は極(きわ)めて高い。ただ、伝聞(でんぶん)や推測(すいそく)に基づいて書かれている箇所(かしょ)があるので、綿密(めんみつ)な考証(こうしょう)が必要である。それ抜きの推測はおよそ歴史学とは無縁である。

 ところで『魏志』倭人伝には「邪馬臺(たい)」ではなく「邪馬壹(いつ)」と刻印(こくいん)されているから、「邪馬壱国(いつこく)」だとする見解もあるが、古い『魏志』倭人伝を引用する史料はすべて「臺」である。「臺」は一一世紀初頭北宋(ほくそう)の時代に刊行された版本(はんぽん)が誤って刻印(こくいん)した可能性が高いので「邪馬台」が正しい。

画像1

 方位と行程

 邪馬台国はどこに在(あ)ったのか、鍵(かぎ)は『魏志』倭人伝に記(しる)される方位(ほうい)と行程(こうてい)の解釈にある。邪馬台国は「南」にあって、朝鮮半島に設置された帯方(たいほう)郡の治所(ちしょ)から僻遠(へきえん)の地に位置するという。そこで方位から九州説、行程から畿内説が発展される。九州説から放射(ほうしゃ)式の読み方が提供された。すなわち帯方郡から伊都国(いとくこ)までの方位・距離の表し方と伊都国から先の国までの表し方に違いがあるのは、伊都国を起点とした表記であるから、邪馬台国は伊都国の「南」「水行(すいこう)十日」もしくは「陸行(りくこう)一月」の地の筑紫(つくし)平野に在るというものである。しかし、「水行十日陸行一月」を「水行十日もしくは陸行一月」と読むことは中国史料の事例からはできないし、放射式に書く場合に付ける「又(また)」字なども書かれていないので、この場合、連続式読み方でよいようだ。


→往来の説
---->榎(えのき)説 
(放射式読み方)

[狗邪韓国]

↓渡海1,000余里

[対馬国](1,000余戸)

↓渡海1,000余里

[一支国](3,000余戸)

↓渡海1,000余里

[末盧国](4,000余戸)→(陸上500里)→(1000余戸)伊都国--陸行100里-->[不弥国]
   --陸行100里-->[奴(な)国]--陸行100里-->[不弥国産]-水行20日->投馬(とうま(つま))国-水行10日/陸行1月->【邪馬台国?】-->[狗奴国]

   (2,000余戸)--水行10日、陸行1月->【邪馬台国?】(7,000余戸)-->狗奴(くな)国
   --->
   →水行20日→[投馬国](5,000余戸)

邪馬台国への里程図」

中国人の地理像

 当時の中国人は、日本列島を九州が北に位置した南北に細長い島を認識していた。後漢(ごかん)が五七年に奴国(なこく)王に授与(じゅよ)した金印(きんいん)は、南方の君長(くんちょう)に下賜(かし)する蛇鈕(だちゅう)である。『魏志』倭人伝でも邪馬台国は「会稽(かいけい)の東冶(とうや)(今日の中国・福健省)の東」に位置していると記(しる)すから、魏は倭国を、揚子江(ようすこう)流域の呉(ご)に近い国と認識していた。したがって、邪馬台国は帯方郡から「南」(実際は東)に、連続式に読んでいたどり着いた地に存在することになる。

「やまと」の音と意味

 奈良時代まで母音(ぼいん)イエオには甲(こう)類( i e o )・乙(おつ)類( ï ë ö ) の音があった。邪馬台の音はyamatö(山の麓の意)で畿内説の大倭(やまと)に一致する。九州の山門(やまと)はyamato(山の入口)であるから、畿内説が有利である。八世紀に大倭郷に編成された奈良盆地東南部(桜井市)の、さらに言えば三輪山(みわやま)の麓(ふもと)が狭義(きょうぎ)の「やまと」なのである。

三角縁神獣鏡

近畿(きんき)を中心に分布する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は魏鏡(ぎきょう)で、卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)から下賜(かし)された「銅鏡百枚」にあたるというもので、畿内説の証拠とされた。一九五三年、京都府山成町椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から三角縁神獣鏡三〇余面が出土し、卑弥呼の後継者によって配布されたものと説かれた。一九七二年、島根県神原(かみはら)神社古墳から魏(ぎ)の年号である「景初(けいしょ)三年」(ニ三九年)銘(めい)の鏡の出土は畿内説を有力視させた。しかし、三角縁神獣鏡は中国からは一面も出土しないこと、五〇〇面以上出土しており卑弥呼(ひみこ)が下賜(かし)された数を上回っていることなどから、渡来工人(とらいこうじん)などによる仿製鏡(ぼうせいきょう)(国産鏡)説が出された。一九八六年、京都府福知山(ふくちやま)市の広峰(ひろみね)一五号墳から、ありえない年次の「最初四年」銘の盤竜鏡(ばんりゅうきょう)が出土したことも、改元(かいげん)を知り得ない人物が制作したことの証拠(しょうこ)であるとされた。
 一九九四年、京都府峰山(みねやま)町・弥栄(いやさか)町の大田(おおた)五号墳、及び九七年に高槻(たかつき)市安満宮山(あまみややま)古墳から魏(ぎ)の年次「青龍(せいりゅう)三年」(ニ三五年)銘の方格規矩四神境(ほうかくきくししんきょう)が出土した。また畿内説という邪馬台国所在地の奈良盆地東南部で出土しないことなどが疑問として残っていたが、九八年、天理(てんり)市の黒塚(くろづか)古墳から三角縁神獣鏡三三面と画文帯(がもんたい)神獣鏡一面が出土した。これには九州説の側からの反論もあり、決着を見ていない。

論争の意義

所在地をめぐる論争が活発なのは、三世紀の政治・会社構造や四世紀の大和政権との関係など、日本列島における国家形成の話題につながるからで、単なる謎解(なぞと)きではないのである。卑弥呼(ひみこ)は巫女(みこ)(シャーマン)であり、神の意志を仲介(ちゅうかい)する女性であった。当時の政治構造は「倭国大乱(わこくたいらん)」の後、卑弥呼を共立して、宗教的権威を背景にして邪馬台国を中心に、各地に点在するいくつかの「国」が連合していた段階だろうと推測されている。三世紀段階ではまだ国家機構による支配は行われていなかったである。

参考図書 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 (講談社現代新書)、 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 (朝日文庫)

ISBN978-4-634-01640-8

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