(令和三年七月十七日 「東京の日」)倭の出兵と好太王碑

 中国の史書は四世紀の倭(わ)について記録を欠くが、この世紀の後半の朝鮮にかかわる倭の動きが二つの文字資料に残されている。七支刀(しちしとう)と高句麗公開土王(こうかいどおう)(皇太(こうたい)王)碑(ひ)である。七支刀は天理(てんり)市の石上(いそのかみ)神社に伝わる特異な形の刀で、その銘文(めいぶん)から三七〇年前後に百済から倭の王に贈(おく)られたと考えられている。この頃、百済は近肖古(きんしょうこ)王のもとで北の高句麗と激しく戦い、隆盛(りゅうせい)のもとを築こうとしていた。その立場を有利にするため、王は南の倭と修好関係を結ぼうとしたらしい。このころ倭人は加羅諸国の一つ金官(きんかん)加羅を拠点としてしばしば新羅(しらぎ)と争っていたから、倭の側にも百済と手を結ぶ理由があった。

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 四世紀末、高句麗は広開土王のもとで南下(なんか)政策をとり、新羅と百済に圧力を加える。新羅・百済は倭国の救援(きゅうえん)を望み、王子(おうじ)を送るなどして複数な外交関係を展開するが、結局、倭国は弱い立場にあった新羅を攻撃、これ対して高句麗は逆に新羅を救援(きゅうえん)して倭と交戦する。高句麗広開土王碑はこの間の事情を記録している、広開土王の顕彰碑(けんしょうひ)である。碑によれば、倭との交戦は上陸で西暦(せいれき四〇〇年、海上での四〇三年のことであった。高句麗は激戦の末、倭を撃退する。

ISBN 「978−4−634−01640−8C7021」

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