10 仏教の伝来
仏教公伝とその時代
『日本書紀(にほんしょき)』欽明(きんめい)天皇十三年の壬申(五五二)年十月の条(じょう、くだり)に、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が、西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)らを遣(つか)わして、金銅(きんどう)の釈迦(しゃか)仏像一軀(いっく)と幡蓋若干(はたきぬがさじゃっかん)・経論(きょうろん)若干巻に仏教の功德(くどく)を讃(たた)える上表文(じょうひょうぶん)を添(そ)えて献上(けんじょう)したと記(しる)されている。しかし、この上表文の内容は、八世紀初頭に漢訳された『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を期にして、『日本書記』の編者が作文した物であろうと言われている。またこのころの百済には「西部(さいほう)」の制度がなく、後代(こうだい)に造作(ぞうさく)されたものと考えられる。このように『日本書紀』の仏教伝来(でんらい)の記事は、史実して疑わしい。
平安時代中頃に完成した聖徳太子(しょうとくたいし)の伝記『上官聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や七四七(天平(てんびょう)一九)年成立の『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳(がんこうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう』には、欽明(きんめい)天皇の七年戊午年(ぼごのとし)に百済から仏教が伝来したと記(しる)されている。『日本書記』の欽明天皇の治世(ちせい)には戊午年がないので、その前後の戊午(ぼご)年を見ると、宣化(せんか)天皇三年(五三八)ということになる。したがって、この年を欽明天皇に擬(ぎ)する仏教伝説が、この頃の南部(なんぶ)(奈良)の仏教界にあったものと考えられる。現在、一般にはこの戊午(五三八)年説がとられている。伝来といっても百済王が国使(こくし)を派遣(はけん)して、ヤマトの大王(おおきみ)に仏教を伝えたという公伝のことであり、このことに関し諸書が、いずれも欽明天皇の治世(ちせい)としている点には注目しておこう。
『日本書紀』には、継体(けいたい)天皇七年(五一三)に百済から五経博士段楊爾(ごきょうはかせだんようじ)が来朝し、欽明天皇十五年(五五四)にも五経博士と僧曇慧(どんえ)ら九人の交代(こうたい)と易(えき)・歴(れき)・医(い)などの博士、採薬師・楽人(がくじん)らの貢上(こうじょう)の記事がある。五経とは易経(えききょう)・書(しょ)経・詩(し)経・礼記(らいき)・春秋(しゅんしゅう)の儒教(じゅきょう)の正典(せいてん)であり、仏教文化とともに幅広い思想や学問がわが国に伝えられていたのである。その聖明王の時代は、中国の梁(りょう)に朝貢(ちょうこう)して南朝の仏教文化を受容(じゅよう)した百済仏教の前世(ぜんせい)期であった。しかし一方で、政治と軍事の衰退(すいたい)、高句麗(こうくり)の侵攻(しんこう)と新羅(しらぎ)の台頭(たいとう)という新しい情勢の下で、百済はわが国の援助を最も必要としていた。このような状況の中で仏教の公伝が行われたのである。
『扶桑略記(ふそうりゃっき)』が引用する『法華験記(ほっけげんき)』には、継体(けいたい)天皇十六年(五二二)に大唐漢人案(もろこしのあやひとくら)(鞍(くら))部村主司馬達人(つくりのすぐりしばたっと)が入朝(にゅうちょう)して、大和国高市群(やまとのくにたけちぐん)坂田原に草堂(そうどう)を営(いとな)んで本尊(ほんぞん)を安置(あんち)したという記事がある。仏教は、すでに早い時期から渡来人(とらいじん)の間にも受容(じゅよう)され広く信仰(しんこう)されていたのである。当時のわが国では、新たに受容(じゅよ)した仏(ほとけ)と在来(ざいらい)の神との違いが明らかではなく、蕃神(あだしくにのかみ)・仏神・他国神などと記(しる)され、病気平癒(へいゆ)などの現世(げんぜ)的利益(りやく)を願って仏像が作られたり、寺院が建立(こんりゅう)されたりしていた。
蘇我氏と物部氏
仏教の受容をめぐる排仏(はいぶつ)派の物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)・中巨連鎌子(なかとみのむらじかまこ)と崇仏(すうぶつ)派の蘇我大巨稲目(そがのおおとみいなめ)との対立・抗争は余りにも有名である。しかし、物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏が仏教受容の可否(かひ)を争った背景には、政治上・外交上の問題、とくに皇位継承(こういけいしょう)をめぐる主導権争いがあったことは見逃せない。
用明(ようめい)天皇が没(ぼっ)すると物部氏と蘇我氏は、皇位(こうい)継承をめぐって対立し、蘇我馬子(うまこ)は、むず佐伯連(さえきのむらじ)らに命じて穴穂部皇子(あなほべおうじ)と宅部(やかべ)皇子を殺し、泊瀬部(はっせべ)皇子をはじめ、厩戸(うまやど)皇子らの諸皇子(おうじ)と豪族で編成した大運を率(ひき)いて河内(かわち)の志紀郡(しきのこおり)より渋河(しぶかわ)に進撃し、物部守屋(もりや)の運と戦って潰滅(かいめつ)させた。物部氏と滅した馬子は、欽明天皇と小姉君(おあねのきみ)の間に生まれた崇峻(すしゅん)天皇(泊瀬部(はっせべ)皇子)を擁立(ようりつ)して、蘇我氏の独裁体制を確立し、仏教興隆(こうりゅう)の基盤もここに確立した。
ISBN978-4-634-01640-8C7021