(半夏生/蛸の日) 4 稲作のはじまり

縄文水田一九七八年板付(いたづけ)遺跡(福岡(ふくおか)県)から縄文(じょうもん)時代の水田(すいでん)が発見された時、弥生(やよい)時代から農耕(のうこう)が始まるというそれまでの考えは改められることになった。その後、九州北部のほか、中国地方、近畿(きんき)地方でも縄文時代晩期(ばんき)の水田の遺構(いこう)が発掘(はっくつ)され、約ニ四〇〇年前には水田での稲作(いなさく)が行われていたことが明らかになった。縄文晩期の水田といわずに、弥生時代を繰(く)り上げて弥生時代早期(そうき)の水田と呼ぶ学者も多く、縄文水田の呼び方はこれからの研究によって変わる可能性もあるだろう。

プラント・オパール

 イネ科の植物の葉には「機動細胞珪酸体(きどうさいぼうけいさんたい)」というガラス質の細胞がある。イネ科の植物が枯(か)れて腐(くさ)った後でもこの細胞は安定していて長期間に土の中に残り、土粒子(どりゅうし)になる。これがプラント・オパールと呼ばれるもので、宝石のように美しい。研究が進み、イネをはじめムギ、アワ、ヒエ、キビなどイネ科の植物のプラント・オパールが識別(しきべつ)されるようになった。
 弥生(やよい)時代以前のイネの収穫(しゅうかく)法は穂首刈(ほくびがり)であった。葉の大部分は水田に残されたので、土壌(どじょう)を調べてイネのプラント・オパールが大量に検出(けんしゅつ)されたことから水田の遺構(いこう)が発見される可能性は高い。そして土器の胎土(たいど)からイネのプラント・オパールが検出された時は、その土器がつくられた時にイネがあったことの動かない証拠(しょうこ)となる。南溝手(みなみみぞて)遺跡(岡山県)で発掘された土器片(約三五〇〇年前)から、イネのプラント・オパールが見つかった。ほかにも三〇〇〇年前の土器からイネのプラント・オパールが検出された例がいくつもあり、イネ科キビ族のプラント・オパールも同期に見つかっている。そのため焼畑(やきはた)で雑穀(ざっこく)と一緒にイネも栽培(さいばい)されたと考えられ、イネの栽培が本格的に始まるのは、やはり水田耕作以降となる。

稲作の伝播

 イネが伝わった道の一つには中国の江南地方から琉球(りゅうきゅう)列島、薩南(さつなん)諸島を経(へ)て日本列島へというルートが考えられるが、いちばん主要なのは朝鮮(ちょうせん)半島を経由(けいゆ)して北九州へというルートである。板付(いたづけ)遺跡などの北九州の水田では、朝鮮半島南部の遺跡から出土する農具(のうぐ)と同じものが出ている。稲作の伝統は単にイネとその栽培法が伝わっただけではない。青銅器(せいどうき)など従来日本になかった文化要素とセットになって入ってきた。これらを見ると、朝鮮半島経由していることがわかる。また弥生時代の人骨(じんこつ)研究の結果からは、朝鮮半島から北九州、中国地方へ集団で渡来(とらい)した人々がいたことがわかっている。北九州で稲作(いなさく)が始まると、西日本に稲作は急速に広まった。紀元前後には本州北端(ほくたん)にも稲作が伝わったことが垂柳(たれやなぎ)遺跡(青森県)などの水田の遺構からわかる。しかし気温の低い東北では稲作は西国のように発展せず、縄文文化を受け継ぐ要素が強かった。気温や水利(すいり)の関係で稲作を受け入れなかった地域は珍しくはない。このようなところでは、正月に餅(もち)を食べずに芋(いも)(さといも)を食べるという文化が伝わり、現代まで受け継がれている。


 稲作によって食料は安定し、人口も増加していく。しかし人を殺すための武器(ぶき)がつくられ、戦争が続くようになる。縄文文化の弓矢は狩(か)りの道具であった。だが弥生時代になると大きな鏃(やじり)が武器として作られるようになる。ムラは防衛のために濠(ほり)をめぐらした。鉄器(てっき)も伝わり、織物(おりもの)も織るようになり、生活は豊かになったか、一方では奴隷(どれい)にされる人々もでてくる。戦争が続く中から「クニ」が作られていく。

参考図書 藤原こう宏志 『稲作の起源を探る』 (岩波新書)

ISBN978-4-634-01640-8

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