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脳内サミット

私が心の底からなりたいと思う女達は、彼女らなりの悩みを各々が抱えていて、それはきっと切実なものなのだろうと思います。

ただこれは予防線という名の自衛であって、本当の私は彼女らを羨む反面どうしようもなく下に見てしまうのです。何故揃いも揃って、目に見えたり手の届く範囲内でしか一喜一憂できないのだろうかと、甚だ疑問に思います。

このように疑問に思うことも、思われることさえも考えなくてよかった、若しくはそこまで頭が回らない人生だったのだろうと。そんなことを考えながら今日も私は、恋人や飲み会についての話を楽しそうにしている彼女らを羨み、憎み、理解できないからこそ心の底から寄り添いたいと思うのです。

外へではなく内へと思考と意識を巡らす私には、先輩や後輩への愛想の振り撒き方だとか、インスタだけ繋がっているイケメン先輩について盛り上がるだとか、スタバの新作がどうだとか、バイト先の誰々がうざくてだとか、そんなの何も分かりません。

分からないなりに取り繕っていますが、大体が見事に空振りし、ボロが出ます。人間関係ほど退屈で面白いものを私は知りません。

先日哲学関連の講義にてプレゼンを行った際、現象学は独我論的であると、最後に感想を述べました。お笑いじゃないですか。お前が言うか、と。

日々矛盾を抱えて息を吸ったり吐いたりしています。人間という生き物は多面体だと思っておりますので、日々色んな私同士が脳内で口論したり、慰め合ったり、殺し合ったりしています。物体、肉体としての私はそれらを知覚することはできません。でも確かに存在するのです。私はその脳内サミットを前列で鑑賞しながら、彼女ら(私)に対して時には従順に、時には裏切ったりと人間的な生活を試みています。

一体何百時間、何千時間をこのような思考に費やすのだろうかと、考えただけでゾッとする夜がありますが、きっと私が物理的に多忙でないから、人間的な疲弊を知らずにのうのうと意識を内に向けることばかりできてしまうから、一生こうなのだろうなと思います。自業自得なのだろうと思います。

"そうせざるを得ない人生の流れ"という言葉は、私にはあまりにも重すぎる言葉で、私が私自身に当て嵌めることはできませんでした。もう疲れてしまったので、全て自業自得だと言い聞かせることにしたのです。

いっそ肉体としての私を殺してしまいたいです。

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