見出し画像

動けない理由

わたくし現在大学生なのですが、今日は丸1日授業をお休み致しました。所謂自主休講というやつです。

本日の深夜3時頃までゼミの課題と睨めっこしていたのですが、力尽き、今日は丸一日休んでしまおうとレジュメとPCを無造作に放り投げました。

しかし、何故だか身体はその眠気に抗おうとするのです。こんな時間まで起きているのにも関わらず、何も成し得ていない己に抗いたいのでしょうか。

結局その後2時間くらいは睡魔に抗うという無駄な時間を過ごし、とうとう諦めた私の身体は深い眠りにつくのでした。

私が私であるために、最も大切にしていることの一つは睡眠なのです。如何なるものでも、それを左右することは許されません。

ただ、皮肉なことに睡眠そのものに私の精神や眼前の生活は左右されているのです。まぁたかが大学を1日休む如きで私の人生や生活は左右されませんが、いやしかし予兆を感じるわけであります。

このまま惰眠を貪り続け、目の前の生に対してより消極的になっていくのだろうかと。とはいっても、私は私の睡眠を削ってまで打ち込みたい、何かをしてあげたいと思う物事も人間も、悲しいことに居ないのです。

唯一挙げることができそうな物事といえば、やはり絵を描くことになります。ただそれは、己より上位に来る概念でありながら、結局肉体としての私がどうこうできてしまうものなので、モチベーションの波という言い訳を盾に向き合ったり逃れたりもしています。

私は私のことを、虚弱な老人か何かだと思っているのです。20代女性の活力や精力が己に包含されているとはとても思えません。

肉体としての己を大切にすることは決して悪いことではないはずなのに、それと反比例していくように私の精神は、日々様々な現象に脅かされ、恐怖し、萎縮していくのです。

身体が強いからといって心が強い訳では無い。
身体が弱いからといって心が弱い訳では無い。
こんな当たり前の構造から自発的に目隠しをし、私は私の肉体を大切に大切に守ってきたのです。

ただ最近はどうも、その目隠しにも限界がきたようなのです。薄ら透けて見えるのです。知らなくていいことを知りたくはないのに、その思いに反してその目隠しとやらは色褪せていくのです。

どうせ死ぬなら。どうせ精神が左右されるなら。
大切なこの身体を擲つ勢いで何かに熱中したり、楽しんだり、苦しんだり、絶望したいと思うのです。

でも私にとっては、嬉しいだとか、悲しいだとかの喜怒哀楽はまるで全て同じもののように感じるのです。正の感情であろうが負の感情であろうが、心が左右されるという点ではどれも一致しているからです。

私は楽しむことが嫌なのではありません。
私は悲しむことが嫌なのではありません。

何かに心を左右されるということが本当に疲れるのです。それはもうとても。

また、何かに心を左右されている私という存在を俯瞰した時に映る私は、それはそれは愚かで惨めったらしいのです。一丁前に人間的な己を見ることが気持ち悪いのです。それを認識することによって、さらに私の精神は疲弊していきます。

きっと私は、私が強くなりたいと羨望する人達のようには一生なれないのだろうと思います。明朗快活に、日々を人間的に生きるということに、私の精神や心はとても追いつけそうにないのです。

たとえそれが表面的であれ叶うものであっても、それは私にとって全く意味を為さないのです。取り繕うのにも限界がありますし、何より、純に心から身や精神を削る思いでなければ、あの人達のようにはなれないと思うからです。

私がなりたい、と認識した時点で、全ては崩れていくのです。分かっているはずなのに、なりたいと願ってそれに近付いたところで、その行為や結果は私にとって偽であり、真ではないのです。私が羨望する彼らはきっと、なろうとも、なりたいとも思っていないということが、何となく分かるからです。

生きているように死んでいるし、死んでいるように生きています。私は他者からペシミズム、悲観的な思いを押し付けられることを嫌悪する癖に、私自身はペシミズムの権化のような生き物であるのです。

これが同族嫌悪というやつでしょうか。私はこの言葉がイマイチ理解できないとばかり思っていましたので驚きです。現象や体験を通してでしか理解できないもの、得れないものがあるという実感を素直に喜びたいところですが、それすらも今は疲れてしまうのです。

様々な要素で分断され、同じ生き物であるはずなのに別の個体である人間という生き物がこんなにも大量に実存することが、不便利で不均一で気持ち悪くて仕方がありません。

街中を歩く時、何十、何百ものソレとすれ違う瞬間、その数だけ用意された人生の多さに、私はどうしようもなく目眩がするのです。

私はずっと、私以外の人間は機械人形のように思えて恐怖していました。私と同じような思考作用を彼らは持ち合わせておらず、当然脳みそや臓器はなく、ただ人間としてのプログラミング通りの言動を働いているとばかり思っていました。

しかし違いました。生々しい他者の性別、思想、感情、価値観等といった要素で構成された夥しい数の人生を、これでもかというぐらいに実感・認識できるからこそ、私はそれらを無くしてしまおうと無意識的に己に働きかけていただけなのです。

人間はやはり生き物であると、今この瞬間嫌という程実感したのでした。と同時に、なんだか吐き気を催して悲しくもなったのでした。

揺るぎようのない事実を眼前に押し付けられ、私の心と身体は乖離するどころか溶け合うように一体となって、寝具から動けなくなるのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?