マズ味の入口は嗜好への出口

きっかけは、妻が第二子を出産するのに備えて、十日間ほど禁酒せざるをえなくなったことでした。
 物心がついて酒を飲み始めて以来、最長記録となる過酷な禁酒期間中、もだえ、苦しみ、世のノンアルコールドリンクを片っ端から試すことで、僕は辛うじて精神の崩壊を防いでいました。
 そうやって様々なノンアルコールドリンクを試しているうちに、その多くは「アルコール飲料の嫌な感じが変な風に再現されていておいしくない」か「飲み物としてはおいしいけど、アルコール感が物足りない」という不満を抱くようになりました。
 そんなとき、ちょうどデイリーポータルで特集されていたノンアルコール飲料の記事を読んで、その中で使われていた「アルコールのマズ味」という表現が、まさに世のノンアルコール飲料の違和感を言い表すのに秀逸な表現だと思ったのです(ちなみに、様々なノンアル飲料を試した結果、ヴェリタスブロイというドイツ製のノンアルビールが一番好きになりました。一度普通にビールを作った後、アルコールだけを抜き取るという製法のため、飲んでいると本当にアルコールが入っていないのか不安になるほどビール感があります。禁酒期間が明けた後も追加注文して、ホッピー代わりに焼酎を割って飲むくらいには気に入っています)。

 その後のある時、僕が個人的に崇拝しているところのイナダシュンスケ氏が、ノンアルコール飲料についてツイートしたことがありました。ちょうど僕も気になっていたテーマであったので、

 「デリポのノンアル記事で、酒の不味みという表現が秀逸だと思ったが、確かに純粋なアルコールの味はうまくない。ある程度、酔いの快感を重ねる、学習によるうまさだと思うけど、酒の美味しさは快感だけではないし、不味さのマスキングだけでもない。山菜の苦味みたいに、不味さがあるからこそ旨いのかも」

 などという返信をつけてしまいました。この時はまだ、「マズ味」という概念の意味が、自分の中で明確になっているわけではなく、「マズ味があるけどおいしい、というよりは、マズ味がなければおいしくない、という現象は世の中に結構ありふれているのではないか? 」 というぼんやりとした思いがあっただけでした。

 その後、イナダシュンスケ氏が「マズ味」という概念を敷衍して、アルコール飲料のみにとどまらず、食べ物全般の普遍的なおいしさにかかわる不可欠な要素ではないのか(※僕なりの要約)、というような趣旨のツイートしているのを見て、とても興味深く感じました。
 個人的な話ですが、僕は日本酒好きが高じて、酒造りの製造現場の一端で仕事をするようになった人間です。酒のおいしさ、まずさ、というテーマについては、つくり手と飲み手双方の立場から、それなりに考えていた経緯があります。
 「マズ味」の意義について、この時ただ共感を覚えただけではなく、「今まで自分の頭の中でぼんやりと感じていた違和感や、言語化できてなかった思想は、『マズ味』という概念を用いることで、うまく説明することができるのではないか」という予感があったのです。
 以下の文章は「マズ味」という言葉を自分なりに定義して、その意味を明らかにし、おいしさを形作る上でどのような働きをしているのか、考えたことをまとめたものです。
 具体的な証拠に基づくものではなく、科学的にも、考古学的にも、論理展開も怪しげな文章です。仮説というより空論といったほうが良い駄文ですが、作文の工程は、僕にとっては非常に楽しく頭を使える有意義な時間でした。有識者各位にはぜひツッコミのほどをお願いしたいと思います。

 1 おいしさの三層構造

 食べ物の「マズ味」という単語は、なんとなく頭ではイメージできるけど、定義するとなると少し厄介な概念です。
 さんざん悩んだ結果、大いに異論は存在するでしょうが、ひとまず僕は、
 「人間が本能的にそのおいしさを感じる、甘味、旨味、塩味、油味、以外のすべての味、風味」=「マズ味」と定義することにしました。
 そして、今後の議論の都合上、「マズ味」の対義語として「人間が本能的にそのおいしさを感じる、甘味、旨味、塩味、油味」=「ウマ味」という言葉を使わせてもらうことにします。

 「『マズ味』はおいしさを構成するために必要不可欠な要素である」という仮説が正しいとします。
 この仮説を説明するために、僕が最初にイメージしたのは、「おいしさ」という建築物を構成する、土台とか大黒柱のような役割を「マズ味」は果たしているのではないか、という絵です。しかし、この絵に従って理論を組み上げようとすると、どうしても矛盾する部分や、当てはまらない反例が出てきます。ああでもない、こうでもないと考えた結果、「僕がそもそもイメージしていた、『おいしさ』という概念に対する考え方が間違っていたのではないか」と思うようになりました。なので、回りくどいようですが「マズ味」の前に「おいしさ」の定義です。

 考えた上で、僕なりの結論を先に述べます。
 人間の感じるおいしさとは、「おいしさ」という一塊の概念があるわけではなく、三つの次元が異なる「おいしさ」の層があり、それぞれの層が干渉しあった結果浮かび上がった四次元のホログラムみたいなものが、われわれが感じている「おいしさ」の正体なのではないか、ということです。
 訳が分かりませんね。

 つまり、以下のような三層があるのではないか、と仮定しました。
 一層目は、満腹感の層です。「空腹は不快であり、満腹になると快になるが、満腹を過ぎるとまた不快になる」
 二層目は、ウマ味の層です。「食べ物に含まれるウマ味の濃度は、ある程度までは増すごとにおいしくなるが、濃くなりすぎると逆に不快になる」
 三層目は、マズ味の層です。「マズ味のないおいしさは存在するけど、マズ味しかないおいしさは存在しない」

 一層目はとてもシンプルです。人間、生きていくためには腹を満たさなければなりません。そのため、空腹は不快であり、満腹になると快になるが、満腹を過ぎると気持ち悪くなってまた不快になる。
 
 二層目について。これはやや直感に反するかもしれません。
 「ウマ味」=「甘味、旨味、塩味、油味」は本能的なおいしさです。何かを食べたときに甘味を感じたら、それには人間が生きていくために必要なエネルギー源である炭水化物が含まれていることを意味します。旨味の主体はアミノ酸であり、タンパク質の存在を予見します。塩味も、油味も、人体にとってポジティブな物質であるため、本能的においしく感じられるのは当然のように思えます。
 しかし、純粋な「ウマ味」……例えば砂糖を直接食べたり、味の素をそのまま舐めたりするのは、たいていの人にとって苦痛だと思います。本来おいしいはずのものなのに、純度が上がるとかえっておいしくなくなるという矛盾を、どう説明すればよいのか。
 最初に考えたのは、総量が問題になっているのではないか、ということです。
 イナダシュンスケ氏による「マズ味」の議論の中で、僕は、

 「純粋な甘味(砂糖)とか旨味(化調)は美味しいけど、無限には食べられないから、少量のマズ味を加えることで(あるいは薄めることで)、トータル摂取量を増やそうという、人類の飽くなき意地汚さに起因しているような気もしますね。個人的には。」

 というレスしてみました。深い根拠があったわけではないのですが、これを書いた時はそれなりに的を射た考えではないか、と思っていました。
 こういう発想になったのは、おいしさの三層構造を思いつく前のことで、ぼんやりですが「「ウマ味」と「マズ味」の対比によっておいしさは生まれる」という前提が自分の中にあったからです。
 しかし「「ウマ味」と「マズ味」の対比」説には簡単に反例が見つかってしまいました。例えば、飴。市販されている飴の中にはほとんど純粋な糖のような商品もあるのに、なぜかおいしく食べることができてしまいます。ほかにもろもろ湧いてくる多くの反例を、うまく説明する方法を考えようとしましたが、どうも無理やりな感じが否めず、最終的には「「ウマ味」と「マズ味」の対比」という前提自体が間違っているのではないか、という結論に至りました。

 「ウマ味」は総量でなく、濃度によっておいしさに影響を与える、という考え方です。
 どの程度のウマ味濃度が最もおいしいか、というのはケースバイケースですが、基本的には「食べ物に含まれるウマ味の濃度は、ある程度までは増すごとにおいしくなるが、濃くなりすぎると逆に不快になる」という法則が成り立つと思います。ほとんど純粋な糖分である飴の場合でも、舐めながら唾液によって糖分濃度を薄めて摂取することになるので、説と矛盾しないように思います。
 科学的に証明しろや、と言われると、すいませんとしか答えられないのですが、体感的にはこの説で納得できるような気がします。ただし、「ウマ味」の濃度がおいしさに影響を与える、という考え方が正しかったとすると、別の疑問が湧いてきます。
 「濃度が低すぎるとおいしくないのはともかくとして、なぜ濃度が高すぎるとおいしくなくなってしまうのか? 」
 「ウマ味」は本能的に必要なもののはずなのに、濃度が高すぎると忌避されるのはなぜか。
 かなり突飛な考え方だと思われるかもしれません。また、証拠がなく、証明しようのない説なのかもしれませんが、僕が思いついたのは「人類が狩猟採集の移住生活から、農耕を軸とした定住生活へと移行したことが原因ではないか」というものです。
 昔何かで読んだ話なのですが、狩猟採集時代の人間には主食という概念が存在しなかったそうです。その時、場所で手に入る限りのものを食べ、食べるものを求めて移動する。結果的にそれは、栄養のバランスが取れた食事であり、したがって人類は健康的な生活ができていたそうです。人類五百万年の歴史中、ほとんどの期間は狩猟採集生活を送っていたわけなので、「ウマ味」をおいしく感じられるのも、効率的に食物探し選び摂取するために、人類が進化して得た特殊技能なのかもしれません。
 しかし、農耕の始まりとともに、人類の食生活は、多品目少量摂食から、主食(穀物)からカロリーの大半を摂取し、それ以外の必要栄養素を副菜から補う、というある意味では不健康化、ダウングレードをすることになります。実際、農業を始める以前と以後の人類の骨などを調べると、明らかに農業を始めた後のほうが、人類の健康状態は悪化しているそうです。
 ただ、定住生活をすることによって、養蜂や牧畜、製塩、発酵の利用などが可能になり、純度の高い「ウマ味」の大量生産されるようになります。言ってみれば、「味気のない穀物に、ウマ味を足して飲み込む」。逆に「濃すぎるウマ味を食べるために、味のない穀物で薄めて食べる」方向へ、食事の形態が変化したのだと思います。
 「ウマ味」の大量生産が可能になるまで、少なすぎる「ウマ味」を感知する機会はあっても、多すぎる「ウマ味」を感知する機会は多くなかったと思われますので、「ウマ味」濃度が高すぎるときに感じる不快感は、ひょっとすると、人類が進化する過程で意図せずに残されたバグのようなものなのかもしれません。証明のしようがない話ではありますが。
 実感として、白米だけで食事を済ますのは辛いし、逆におかずだけの食事もつらい。たいていの場合、空腹を埋めるために、まずご飯はどれくらい必要か、という計算から始まって、ご飯を処理するためにどれくらいのおかずが必要か、などというように食事のメニューは組み立てられているのではないでしょうか。
 一部では忌避される炭水化物定食(お好み定食とか芋コロッケ定食など)も、満腹度を優先し炭水化物にメニュー構成を振ったうえで、「ソースの強烈なウマ味に油味を加えたものを、小麦粉や芋でご飯の友としてちょうどよいレベルまで希釈し、ご飯でさらにウマ味を拡大希釈している」と考えると不思議の度合いが減る気がします。

 アルコール飲料と、食べ物とのペアリングの問題も、ある程度はこの「ウマ味」濃度の問題としてとらえることができると思います。というか、アルコールの役割として、ある意味、酔いと同程度に重要な気さえします。
 適度な「ウマ味」はおいしいですが、主食で希釈しなければ濃すぎて辛い。しかし、ご飯などを食べてしまうと、すぐに胃袋が満たされてしまって、すぐに食事が終わってしまう。満腹も過ぎると不快になりますので。その点、アルコール飲料であれば、胃袋を満たすことなく「ウマ味」を適度に薄めながら、おいしさを長い時間味わい続けることが可能になります。アルコール抜きの食事を一時間食べ続けるのは相当苦痛だと思いますが、飲み会だとなんだかんだで三時間くらい余裕ですよね。
 では、そもそもの発端の話に戻りますが、ノンアルコール飲料で、「ウマ味」の希釈することは可能なのか、という疑問が湧いてきます。僕が延々とノンアルを飲み続けた十日間の実験では、「アルコール飲料と同じ飲み方をすると、胃がつらい」という結果が確認されています。これは人体に含まれる水分とか塩分が関係しているのではないか、と思われます。
 居酒屋で生中三杯くらいは秒殺できるのに、同じ量の水を同じ時間で飲め、といわれたら相当つらいと思います。アルコール飲料を摂取すると、人体は毒物であるアルコールを分解するために、水分を必要とします。そのため、水分がほとんどであるはずの酒を飲んでいるのに、むしろ体は脱水状態になります。一方ノンアル飲料ではそのような作用が起こらないので、水分は水分として吸収され、胃液が薄まって胃の調子がおかしくなったり、夜中やたらとトイレに行きたくなったりします。しました。
 水分を取りすぎると体の恒常性にいろいろ不具合が出てくるようなので、ノンアルコール飲料をアルコール飲料の完全な代役にすることはできないように思えます。しかし、水分量が問題だというのなら理屈の上では、アルコール以外の成分を用いても、「ウマ味」の希釈効果を果たせる液体を作ることは可能かもしれません。
 例えば塩分。人体の0.3~0.4パーセントくらいは塩分だそうですが、これくらいの濃度の塩分であれば、水分が過剰になって不具合が起こることもないかもしれません。味わいとしてはかなりヘンテコなものかもしれませんが、アルコールとは別の発想の「腹を膨らませずに「ウマ味」を希釈できるペアリング」として、用いることも可能かもしれません。塩分過剰が心配なら、塩化ナトリウムの一部を、なにがしかのミネラルに置き換えて浸透圧を調節したらよいのではないでしょうか。
 幸いにも僕の場合、第二子が無事生まれてくれたこともあり、以降ノンアルコールのペアリングに頭を悩ます機会はなくなったのですが、ミネラル入りの液体が本当にアルコールの代替物になるのか、気になるところではあります(自分で試すとは言ってない)。

 2 マズ味の入り口は嗜好への出口

 前置きがずいぶん長くなってしまいました。ようやくですが本題である「マズ味」について考えていきたいと思います。
 三つ目の「マズ味」の層は、言い換えると、「情報によるおいしさ」とか「学習によるおいしさ」と言い換えることも可能かもしれません。
 人間が感じる本能的なおいしさ(甘味、旨味、油味、塩味)は、それ単体で料理として成立することもありえるでしょう。白いご飯に適量の塩と味の素、油をかけただけでも、案外おいしく食べられます……というかこれまさに、コンビニの塩むすびですね。
 しかし一方で、本能的なおいしさ=ウマ味を全く含まない食べ物というのは存在しえないでしょう(アルコール飲料は例外。後述)。「ウマ味」は人体にとって必要だから本能的においしく感じるようにプログラムされているわけで、「ウマ味」を全く含まない食べ物はそもそも人間に食べ物とは認識されないと思います。よって三層目で問題にする「マズ味」とは、「ウマ味が存在しないからおいしくない」という状態を除きます。
 最初に定義した「人間が本能的にそのおいしさを感じる、甘味、旨味、塩味、油味、以外のすべての味、風味」という「マズ味」の定義は、あまりにも広すぎるように思われるかもしれませんが、理屈の上では、本能的においしくない味や風味とは、経験か学習を経なければおいしく感じられないもの、ということになります。
 その証拠というにはあまりにも頼りないですが、僕は去年ちょっとした出来事を体験しました。
 YouTubeなどに、子供に初めて何かを食べさせる瞬間の映像、というそこそこ人気のある動画ジャンルがあります。たとえば、生まれて初めてレモンを食べ、その酸味に顔をゆがめる瞬間だったり、甘いシロップを口に含んで夢中になりいつまでも舐め続ける瞬間など。初体験の衝撃に対する子供の反応は、つくりも隠しもしない素朴で新鮮なとてもほほえましいものです。
 僕の上の娘は去年離乳食を卒業し、少しずつ大人と同じ食べ物に慣れさせていく段階を経ました。そこで、何かを初めて食べる瞬間には動画で撮影したりしてみているのですが、YouTubeに上がっているような劇的な反応にならないこともままあります。レモン果汁のような刺激のあるものや、シロップのような甘味に対しては実際素直に反応するのですが、初めて食べたときには意外と反応が芳しくないものが多いのです。
 例えばバナナ。甘くクリーミーで子供が特に好む果物、というイメージがあったため、娘に初めてバナナを与えるときにはその反応が楽しみで、スマホを構えて動画を撮影していました。しかし、食べやすいように細かく刻んだバナナを口の前にもっていっても、娘は気の進まない様子で口を開こうとはしません。少しでも舐めれば甘味に気づいて食べ始めるだろう、とやや強引に口の中にバナナを含ませましたが、口のなかで少し転がしただけで吐き出し、吐いたバナナを手で押しのけて拒絶するそぶりさえ見せました。
 その後日の、何度目かにバナナを与えていたある日、突然バナナのおいしさに目覚めたのか、娘はすんなり食べてくれるようになりました。そして一度食べ始めると、親の静止を振り切って満腹になるまでバナナを食べたがるほど好きになりましたが、たとえ甘く食べやすいバナナだったとしても、初めから好きになるとも限らないのだなあ、と意外に感じました。
 娘が初めて食べた瞬間から夢中になって食べたものは、甘いパン、シロップ、スナック菓子、ヨーグルト……という名の酸味がほとんどなく甘味と乳脂肪分の塊など、親としては極力与えたくないようなものばかりです。一方で、マンゴーやメロン、甘い台湾パインのような、一見子供が好みそうな果物でも、案外初体験の際には反応が鈍く、何度か与え続けてようやく食べるようになる、というケースが多くみられました。
 もちろん、これは僕の娘に限った事である可能性はありますし、このことから一概に何かの法則を導き出してしまうのは、あまりにも軽率なことである事は承知していますが、個人的には「人間は「ウマ味」以外の初体験の味覚に対して、基本的に否定から入るものなんじゃないだろうか」という感想が浮かびました。

 人間に「マズ味」という味覚が備わっている最大の理由はおそらく、食べ物に含まれているかもしれない毒を回避するためでしょう。
 たとえば植物がもつ有毒なアルカロイドには強い苦みがあったり、シュウ酸を多く含む食べ物を口にすると刺されるような痛みを感じます。強い毒性を持つものをうっかり食べてしまうと、そのまま命を落とす可能性があるので、食べた瞬間に害があるか否かを判断する機能は、先ずもって必要不可欠です。
 しかし一方で「マズ味」の味覚は信頼できないセンサーでもあります。強い「マズ味」が必ずしも強い毒を意味するとは限らないし、フグのようにほとんど「マズ味」のない強毒の持ち主もいます。
 そもそもセンサーが反応しない可能性があるし、反応したら注意する必要はありますが、無視しておいても差し支えのない場合だって多いのです。
 この「マズ味」が危険であるか否か? この食物には「マズ味」を我慢して食べるだけの価値があるか? 
 答えはケースバイケースであり、同じ属の動植物でも異なるし、同じ種類のものでも生息域や季節、部位によっても毒性の有無が異なったりすることを考えると、とても一言で言えるようなものではありません。「マズ味」のみによる危機回避機能では明らかに不十分で、実際山菜取りやキノコ狩りのシーズンになると、その欠陥が明らかになるような痛ましい事故が起こっています。
 逆に、自然界に純粋な「ウマ味」がめったに存在しないことを考えると、ほとんどの食物は「ウマ味」と同時に「マズ味」を含んでいるわけです。人類は致命的な毒を避けつつも、ある程度の「マズ味」は許容する必要があるとも言えます。
 「ウマ味」も「マズ味」も人類が本能的に持っている味覚ですが、「マズ味」は経験と学習によって頻繁に塗り替えうる感覚です。あるいは、集団や社会の中で共有されているミームによって、外部から克服される感覚であるという点が興味深く思います。
 僕の娘が最初バナナを拒絶したのは、バナナの中にある何らかの「マズ味」を感知したせいなのかもしれませんが、僕はバナナが無害であることを知っていました。だからその後も嫌がる娘にしつこく食べさせ続けることで、ついにはバナナに対する拒否反応を抑え込むことに成功しました。
 食の安全性は、個人の持つ欠陥だらけの「マズ味」センサーと、先人たちが積み上げてきた膨大な個別事例集との重ね合わせによって担保されているのではないでしょうか。とすると「マズ味」の感覚がすなわち不味さに直結するわけではない、という一見不可解な現象は、人類がこれまで集団で生きてきたことの帰趨なのかもしれません。

 ある地域の文化に帰属する人間が、それらに従って今まで生き延びてきたことを、選択の合理性の証明だとすると、そこで選択されている食材はおそらく栄養面などから理にかなったものでしょうし、食材を組み合わせて作る料理もおおむね合理的なものになっていると思います。手に入る食材には地域や季節による制約があり、また燃料や調理器具などの点から調理法にも制約があるでしょう。またすべてが合理的な面だけからではなく、歴史や流行によって恣意的に左右される面もあるでしょうが、基本的にはある料理体系(例えば日本料理やトルコ料理、南インド料理、イギリス料理にいたるまで)は、地域や文化を問わずその地域で手に入りやすい食材を用いて、効率の良い調理方法によって、それぞれ合理的に構成されていると思います。ただし地方毎に条件や歴史の変遷は異なるので、それぞれの環境に合わせて異なる合理性が形作られていくことになると思いますが。
 要するに、どのような料理にも、それぞれのおいしさがある、ということです。
 それと同時に、それぞれの料理には食材や料理法に起因するそれぞれの「マズ味」も付随します。実際日本でよく使われる醤油などは、客観的にみると結構変わった風味の食材だと思います。独特の風味に慣れたら、豊富な旨味と塩味があるからとてもおいしい調味料ではありますが。日本人にとっては、ナンプラーや各種スパイスなどはさらに「マズ味」の強い食材でしょう。「マズ味」は危険を予知するセンサーだとすれば、ものを食べた際には「ウマ味」よりも先に知覚される味だと思います。しかし、幼いころから何度も繰り返し食べていく中で、次第にその「マズ味」にも慣れてきて、やがてはそれが「マズ味」と認識し抵抗を覚えることすらなくなってきます。
 「マズ味」には強弱があり、苦みえぐみ酸味などの「マズ味」が少なく、純粋に近い適度な「ウマ味」を持つ食べ物ほど、地域や民族に問わず多くの人にとって受け入れやすい。反対に「マズ味」の強い食べ物は、伝統的にその種の「マズ味」を経験し、慣れてきた人でなければ、なかなか受け入れることはできないでしょう。
 「マズ味」を受け入れられるか否かは、「マズ味」自体がどうということに加えて、未知の食べ物に対してどのような姿勢で挑むのかによって左右される部分も大きいと思います。
 日本で最大公約数的な生まれ育ちを経てきた人が何の前情報もなしに……例えば歴史文化環境の全く異なる南インド料理を食べた場合、今まで慣れ親しんできた「マズ味」の許容範囲から大きく外れているため、たいていはいきなりそのおいしさを理解するのは難しいでしょう。大体の人はこの時点で「自分の口には合わないな」と判断すると思います。しかし、「どうやら南インド料理というものがあり、ずいぶんおいしいものらしくて、巷で流行しているらしいぞ」という前情報があって、「興味が湧いたから食べてみたいな」と思っている人間なら、たとえ慣れていない「マズ味」に戸惑ったとしても、少なくとも「マズ味」を乗り越えようとする努力をするのではないでしょうか? 今まで苦手だった食べ物が、ふとしたきっかけで好きになったりする、ということはたまにあります。それは苦手だった食べ物の味が変化したからではなく、それを食べる自分自身の意識や考え方が、いつの間にやら変化していたからなのでしょう。
 麻辣やパクチーのように、それまで日本ではごく一部の人にしか受け入れられていなかった味が、ブームによって一気に多数に浸透するのはまさに、個別の「マズ味」センサーを集団のミームが上書きしている現象じゃないのかな、と思ったりするわけです。
 イナダシュンスケ氏が時々使う「フードサイコパス」という単語は、未知の食べ物に対する好奇心が強い人間のことを指している、と個人的には解釈しています。フードサイコパスとは
「世の中に存在する料理は大体おいしい、ということを前提に自分にとって未知の料理に出会い、そのよくわからない「マズ味」を乗り越えて、新たなおいしさを見つけることに喜びを見出す人種」
なのではないでしょうか。だから、日本人向けにローカライズした外国料理を認めず、現地で作られているそのままを求める原理主義的な人が多い印象です。
 このような志向は、いわゆる「グルメ」と呼ばれる人種とは異なっていると、個人的には区別しています。それは自分が「グルメ」ではないという自覚からくる偏見なのかもしれませんが…
「グルメ」な人は自分のなかに何かしら「おいしい料理」のイデアみたいなものを持っていて、食べたものがそれに適合するか否かを重視する、というイメージがあります。端的に言うと海原雄山です。
 また、「結婚した妻に、おふくろの料理の完コピを要求するモラハラ夫」がたまに話題になったりします。妻がいくら努力して料理を作っても、「おふくろの味と違うのはダメ」という基準ですべてを判断する人たちのことです。このような人たちが倫理的にどう、ということはひとまず置いて、「おふくろの味以外を認めない」という思考は、「マズ味」センサーを上書きするミームの母体が実家に限定されているために、外部から上書きするのが難しいタイプなのかもしれません。
 「マズ味」のセンサーを塗り替えるのはある意味本能に反することなので、幼いころから慣れ親しんで平坦化された「マズ味」以外を受け入れるのは少なからずストレスがあるでしょう。センサーを塗り替えることへの抵抗感の厚薄がサイコパスになるか否かの分かれ目だとも思います。


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