三浦仙三郎「改醸法実践録」と近代日本の酒造り(後)

酛取

麹製造に次ぐ頁を割いて詳述されています。
冒頭で三浦は、
「育て酛(昔ながらの生酛に改良を加えた技法)使うと良い結果が出ているのだが、最近の市場の需要を見ると、摂津や灘のような端麗で香りの良い酒が人気がある。先進地域とその他の地域で最も違いが大きいのは酛立ての方法である。灘ではぎり酛という手法が多くとられている。
水の硬軟や原料米を灘と同じにすることはできないけど、ぎり酛の操作方法自体は真似できる。実際に自分が実験したところ、水や米質の違いからか、ダキ操作を誤った場合には火持ちが悪かったり発酵しきらなかったりと失敗もあったため、まだ完全にぎり酛だけで酒造るところまではいけてないけど、先進地域の灘を見習ってぎり酛増やして良いお酒を造っていきたい」みたいな事を言っています。
その後に記されているのは、「改醸法実践録」が執筆される前年に、灘で習ってきた最先端の「ぎり酛法」を、三浦の蔵で実践した時の記録です。

ぎり酛は生酛の一変法であり、ダキを入れるまでの操作(仕込み、手酛、山卸、酛寄せ)は基本的には生酛と変わりません。
一個酛の配合は蒸し米約75キロ、麹米約30キロ、水108リットル(汲み水103%)で、わずかに汲み水の数字が多いですが、だいたい現代に行われている仕込配合と同じです。
現代の標準的な方法では、山卸は三回位が多いと思いますが、改醸法の記述では「二時間毎に六回」と書かれているので、昔の米は精米歩合が低くて硬かったから念入りに酛摺りやってたのかもしれません。
酛寄せでは二個酛分を一つの壷代に合わせているので、米150キロ、麹60キロ、水216リットルが一本の桶に入れられます。

初ダキは四日目から。記述が無いのでダキの温度はわかりませんが、おそらく熱湯ダキなのだと思います。
ぎり酛法の最大の特徴は厳密な品温管理にあると言っても過言ではないでしょう。各段階で目標とする温度経過が設定されているのですが、ダキの湯の温度ではなく、複数のサイズのダキを使い分けることで予定の品温へと導いて行きます。

仕込四日目から、毎日午前に八時間、午後に九時間ダキを入れていき、仕込七日目で湧き付きへと導きます。
仕込一日目(仕込)

仕込二日目(山卸)

仕込三日目(酛寄せ)

仕込四日目(初ダキ 午前午後一本ずつ計二本)
室温1度 酛品温7度

仕込五日目(午前午後一本ずつ計二本)
室温4度 酛品温14度

仕込六日目(午前午後一本ずつ計二本)
室温3度 酛品温16度

仕込七日目(午前午後一本ずつ計二本 湧き付き)
室温1度 酛品温19度

仕込八日目(湧き付き休み)
湧き付いたら発酵熱で品温が自然に維持されるので、一日ダキ入れを休みます。
この時の発酵の強弱で「ぎり味」の出る速度が変わってきます。「ぎり味」とは渋みが五分、甘味が二~三分位、辛みと酸味と乳味が同じくらいでてきたときの味。状貌で言うと、大豆~エンドウ豆くらいの大きさの泡が出てきた位。この状態になるといよいよ「ぎりダキ」を入れ始めます。
「ぎり味」は品温18度位なら二昼夜かかるし、品温27度位なら二~三十分で出てくる。早すぎても遅すぎても良くないので、二十四~三十時間位で出てくるのがちょうど良いそうです。

仕込九日(ぎりダキ一本目)
酛の品温20~21度を目標に、酛の品温に合わせて冷水、あるいは温湯をダキに詰めてダキ入れを行います。
この時、ダキの持ち手をもってギリギリと激しく回転させる事から、ぎり酛という呼び名が付いたそうです。ダキ入れしている間は蔵人が交代でダキを回し続けます。
「改醸法」に記載された例だと、ぎりダキ一日目は十五時間、二日目は九時間ダキ入れしてギリギリ回し続けています。
…さらっと書いてますが、ダキを延々と回し続けるとか狂気の沙汰ですね。人件費が安い時代だから成り立ったんでしょう。マジでこんなことやってたんですね。 

仕込十日目(ぎりダキ二本目~熱湯留めダキ)
前日に引き続き、ダキを入れてギリギリ回し続けます。
三浦仙三郎曰く
「ぎりダキの目的は、この段階では酛の品温が上がりがちだが、この品温の上昇を抑えて自然に酛を成熟させ、酵母の繁殖を妨げないようにするためである。
ぎりダキ入れ始めた時は粗めの高泡だが次第に泡が粘ってきてやがてトロロ泡になり、更に状貌が進むと泡が軽くなる。
甘味がほとんど消えて、渋みが6~7分位(状貌で言うと更に泡が軽く粗くなって雀の卵状)になったらぎりダキを終える」
とあります。
この状態になったらぎりダキを終え、熱湯留めダキに切り替えて更に品温を上げていきます。

熱湯留めダキは九時間入れて、酛の品温28度

仕込十一日目(熱湯留めダキ ぬくみとり)
熱湯ダキを七時間入れて、酛の品温を32度まで持っていきます。
大事な時期なので、品温によって臨機応変にダキを使い分けて上手に品温を導きましょう、みたいな事を書いています。
甘味がなくなり、渋みが更に増え、風味が良くて淡白な味になります。泡の状貌は高泡が落ちてきて、少し面が見えてきて、中玉泡が沸いてきます。

仕込十二日目(酛分け)
最後のダキを抜いてから七~十二時間程度経過し、酛味、状貌が良い感じになったら酛分け。
状貌は、大玉泡→百合玉泡→離れ玉泡になった辺りで、
酛味は風味が淡白になって渋みが強く、辛み苦味酸味がしっかりして、甘味と乳味は全くなくなった頃、とあります。
ただし、このような理想的な状態になるのは稀で、難しい技術なので臨機応変にやっていきましょうね、とのことです。
また、枯らし期間の標準は十二日程度ですが、長くおく場合には若目に分けた方が良い、ともあります。

ぎり酛とはなんだったのか?

さてここまで「改醸法」の記述の通りに「ぎり酛」の経過を書いてきましたが、現代に伝わる生酛の理論、作り方から考えるとかなり奇妙な方法ではあります。
仕込み、手酛、山卸、酛寄せまでの操作方法は概ね共通していますが、ダキ入れ方法が全く違います。
現代にも伝わる標準的な育て酛(生酛)を改醸法で三浦は「旧法」と呼び、「確実性が高いが味わいが鈍重なため」ぎり酛へと切り替えようとしていた訳ですが、ぎり酛の独特なダキ操作の違いは一体どう言った理由から生まれたのでしょうか?

そもそも伝統的な生酛造りは、微生物というものの存在すら知られていなかった時代に、経験則を積み重ねて作り上げた酵母の培養方法です。
微生物の働きが低下する冬季に、手酛から山卸(蒸して冷して老化させた米に汲み水歩合100%程度の水を吸わせ、櫂で擂り潰す)による濃糖圧迫によって雑菌の繁殖を抑えます。
前ダキと呼ばれる初期段階では5度位の品温から、ダキ一本でおおよそ2度温度を上げ、次の日までに1度下がる、といった感じの階段状の品温経過をとります。
このダキ操作が雑菌淘汰の肝となり、酛全体としては低温で抑えながらも、ダキ表面の温度だけを温める事によって糖化を進め、低温下で繁殖する硝酸還元菌、球形乳酸菌、桿形乳酸菌の興亡が起こり、産膜酵母や野生酵母の増殖を抑えつつ、最終的に低温での発酵能力が高くアルコール耐性に優れた清酒酵母のみが生き残るといった寸法です。
細かい原理や数字はここでは省略します。どこか他で読んでください。要するに生酛造りという方法を正しく行えば低温、濃糖、亜硝酸、乳酸、アルコールといった様々な手段のあわせ技で雑菌を廃し、清酒の製造に適した酵母のみを培養することができていた、ということです。

しかし、ぎり酛では雑菌の淘汰プロセスとして重要な前ダキ期間(特に硝酸還元菌や球形乳酸菌、桿形乳酸菌が繁殖する期間が無い)を大胆に省略しているために、現代人の視点からするととても危険な方法のように見えます。理屈の上では産膜酵母や野生酵母を淘汰することができなさそうですし、現に三浦仙三郎も実験の結果「醪での糖分の食いきりが悪く甘味が残った」と記していて、これはアルコール耐性の低い酵母が淘汰しきれなかったためなのでは? と考察することもできるでしょう。
酒造りが経験則の積み重ねから、科学的に解明されていく途中で生まれて消えていった手法の一つ、と言ってしまえばそれまでの話なのですが、何故このような手法が発明されたのか? という疑問が湧いてきます。

上で紹介されているギリ酛の前ダキの入れ方は、現代一般的に行われている生酛のやり方よりも明らかに強く早くなっていて、むしろ速醸酛のダキの入れ方に近いです。
速醸酛のダキ入れは、硝酸還元菌や乳酸菌の存在は考慮せずに、米の糖化と酵母の増殖に適した温度帯を優先します。

ギリ酛の発明は1850年頃と言われていますが、この頃西洋ではアルコール発酵の主体が酵母という菌ではないか? という説が唱えられており、1858年にはパスツールがその説を証明しています。

https://tc-kyoto.or.jp/magazine/history-kyotokobo-ep02/


十九世紀に入ると江戸幕府や各藩も(国防上の理由などから)西洋医学や兵学、西洋科学を積極的に取り入れ初めているので、その過程で酒の発酵に関する知見も何かしらで入ってきていても時期的には不思議ではないよな、と思います。
パスツールが実際に研究していたワインやビールは酵母のみが関わる単発酵であり、醸造の過程で酵母以外の菌の関与はありません。この点で清酒醸造と大きな違いがあります。
明治以降に醸造試験場が設立した当初、純粋培養酵母によって大きな成果を上げていた西洋の酒造りを見て「とにかく酵母が重要なんだ」と安易な物真似で醸造指導を押し付けた結果、腐造が多発した、という出来事もあったそうですが、ギリ酛はそれに先駆けた技術だった可能性もあります。
酵母の増殖のみに注目して、泡(酵母の増殖)が始まったら、それに適した温度帯をギリダキによって強制的に維持しようと考えたのが「ギリ酛」の目的だったのではないか? というのが僕の個人的な推測です。運良く優良酵母が湧いた時には、速醸酛のような軽やかな酛味になるでしょうが、非常にリスクの高い方法のようにも思います。
まあなんの根拠もないので、妄想と言った方が良いかもしれませんが…

そもそも生酛ってそこまで精密に行われていたのか?

「生酛は江戸時代に発明された非常に高度な技法である」という教科書的な記述があり、実際に理想的な経過をたどった生酛では清酒酵母の培養が見事に行われるという事実があります。
しかし、明治以前の酒造りで果たしてそこまで百発百中に生酛造りが行われていたのでしょうか? 
当時の酒造技術者の視点を想像してみましょう。微生物というものの存在さえ知られておらず、当然の事ながら硝酸還元菌も乳酸菌も酵母の事だって思いもよらないものでしょう。
現代の酒造工は、酛の亜硝酸反応をみたり酸度の上昇、酵母の増殖による泡立ちを見たら「ああ、菌が増えてきたな」と無意識に目に見えない菌の存在を見てしまいがちですが、そういう現代人特有の色眼鏡を無しに発酵という現象を眺めてみると、改めて不思議の念が湧いてくるはずです。
「なんだかわからないけどこの手順を踏むと酒が湧く」
という経験知の蓄積はあるけれど、原理に対する本質的な知識はなくて、口伝秘伝は時に伝言ゲームのように不合理な手法や危険な技法を付け加えたりすることもあったはず。
このような環境知識において、温度計はもちろん空調も冷却装置も無い中、肌感覚と官能検査だけで熟練のダキ操作を行い、年間五十本もの育て酛を百発百中で作る名人上手も、中にはいたのかもしれません。が、確率論でいうと失敗もそこそこあったのではないかな、と想像できます。
何度も述べるようですが、生酛の技法はその巧妙な微生物の遷移を知った上で作り上げられたわけでなく、数多の失敗の上試行錯誤の結果として生まれたものです。明治以降に原理が解明されるまで、生酛の安全性は微生物の遷移を利用した芸術的な技法というよりも、安全策を多重に組み合わせた冗長性に担保されていた、と考えた方が実態に近いのではないでしょうか?
現代における生酛造りの達人として名高い石川達也杜氏は「生酛は難しいなどとよく言われるけど、実は生酛はあらゆる酛の中で最も安全な作り方である」とおっしゃっていました。この言葉は百発百中の再現性があるというよりも、どこかで失敗したとしても取り返しがつくので最終的には「酒にはなる」というような意味なのだと個人的には解釈しています。
明治以降に山卸の廃止や、ぬくみとりの省略、はては乳酸添加による速醸酛の発明など、酛造りの簡便化が次々に起こりました。これは生酛による酵母の純粋培養の原理が解明されたことで、これまで安全性を高めるのに一役買っていた冗長性が剥がされて行く過程と考えてもよいのかもしれません。
例えば、古い生酛の資料だと当然のように行われているぬくみとりという工程は、現代の生酛造りで行われることはほとんどありません。
この工程の意味を簡単に説明すると、ダキいれによって酵母が増殖した後に更に酛の温度を上げることで、温度、酸、アルコールの会わせ技によって野生酵母を死滅させるために行われます。
ただしこの工程を行うことで酛の香味が落ちたり、せっかく増やした清酒酵母もいくらかは死んでしまうので、順調に生育した酛なら行わない方が良い、とされています。
逆に言うと、この工程が当然のように取り入れられていたのは、順調に酛が生育することが当たり前ではなかったからなのでしょう。
前ダキ期間中に品温が高くなりすぎて、硝酸還元菌や乳酸菌の遷移がうまく起こらず、アルコール生成能力の低い野生酵母によって早湧きしてしまったとします(そもそも童蒙酒造記なんかでも、前ダキの本数が今よりも明らかに少なくて湧き付きに持っていくまでの時間が短いので、こういう事態はけっこうありがちだったのでは?)。
現代の酒蔵なら間違いなくこの酛は廃棄することになるでしょうが、繁殖したのが野生酵母でもある程度のアルコールを出していて、酵母の増殖過程でそれなりに酸も出ていたのなら、強めにダキ入れてとりあえず米は溶かして、ぬくみとりで様々な菌が混在している酛を温めて強制的に野生酵母その他を淘汰できたなら、他所の健全な酛からの酵母の飛び込み(木製の櫂を使い回してたら良くあることだったでしょう)、あるいは差し酛等の手当てによって酛として使えないこともなかったかもしれません。
当然香味は悪くなるでしょうが、三浦仙三郎が書いていた「旧法は安全性が高いけど香味が重い」みたいな言葉は、場合によってはこのような酛を使っていたからなのでは? という妄想も膨らみます。
また、生酛の特徴として「長い枯らし期間に耐える」というものがありますが、枯らし期間を長くするほど酵母の立ち上がりも遅れます。しかしこの枯らし期間の間にも、清酒酵母の飛び込みや、清酒酵母以外の菌を淘汰する効果もあったと考えられないでしょうか? 
「アルコール生成能力の高い清酒酵母のみを培養する」という生酛造りの目標は、一般的に生酛の特徴とされている山卸やダキ操作~湧き付きまでに至る操作だけでなく、ぬくみとりや枯らしといった現代では等閑視されている工程も含めて機能していたのかもしれません。

生酛に関してはその微生物の遷移の巧みさや歴史ある技法のロマンに関心が寄せられることが多く、売り文句として「生酛」と大書されるほど特別視されがちではありますが、冷静に考えてみると酒造りの(重要ではあるけど)一工程に過ぎません。
そして「生酛のしくみ」として世間でよく紹介されるのは、上でも述べた通り、仕込み~前ダキ期間についての記述がほとんどです。しかし、実際のところはもっとトータルの部分、当時の酒造工程そのものも含めてその安全策の一貫として働いていた可能性も考えられます。
江戸中期以降に灘では製造石高一万石を越えるような酒造家が現れましたが、酒蔵の構造は「一日十石の米を百日間仕込み続ける千石蔵」が一単位であり、この千石蔵をいくつも所有することで大きな製造量を達成していました。
本仕込みを百本、仕込み二本に対して酛一本(二個酛)だとすると、年間五十本の酛が必要になります。
これはあくまで推測なのですが、上記のような状態環境で五十本も無添加の生酛を仕込んでいたら、中には湧きが遅れたり、野生酵母に侵されて香味が悪くなったりする酛もあったのでは? と思うんですよね。生酛に適した寒仕込みと言ったって一冬の中には暖かい日もあるだろうし、木桶は保温性が高いので温度下げるのに向いていないし、そもそも温度計のない時代には厳密なダキ操作なんて不可能です。
昔ながらの方法では、造りの始めに酛を全て仕込んでおいてから、順次使っていくという段取りで仕込んでいきます。このような方式であれば多少ダメな酛が出来てしまっても廃棄し、使える酛から使って行って、足りなさそうなら本仕込みと平行して新たに酛を仕込んで間に合わせる、というリカバリーの方法もあります。

以前戦前から菊正宗に勤めていた杜氏さんの回顧録を読んだときに、同じ会社の杜氏同士は出身地が違っても結構横の繋がりがあって仲良く、造りの最中も頻繁に行き来をしていた、という記述を読んだことがあります。おそらく技術的な情報の共有もされていたでしょうが、「困った時はお互い様」みたいな感じで秘密のやり取りがあってもおかしくないなーと、(全く根拠はないですが)思いました。
また先日、偶々無添加生酛系酒母で有名な蔵元さんのお話を聴く機会がありまして、ここにその詳細は(とてもじゃないけど)書けないんですが、経験と知識が蓄積された蔵でも100%完璧に成功するわけではなく、その対処法としてけっして表には出せない数々の裏技が存在することを知りました。

江戸時代から明治の初期まで、灘の杜氏を引き抜いたりしてその技術を他地方へも広めようという動きが何度もあったのにも関わらず、結局灘の優位性を覆すまでには至りませんでした。
杜氏の技術レベルとか水の違いとか水車精米の威力とか蔵付き酵母の違い等といったミクロの部分での違いも勿論あったでしょうが、そもそもの生産体制の信頼性の差や、いざという時に発動する秘伝の裏技によって(良くも悪くも)何とかしていたのが、技術移転を行うために衆人環視のもとではおおっぴらには使えない事の影響も少なからずあったのでは? と邪推します。

現代でも少なくない酒蔵が生酛に挑戦しているといっても、仕込み数量の多くは速醸系でやっていて一部生酛や山廃に挑戦する、みたいなところの方が多く、ほぼ全て生酛系でやっている所は剣菱や菊正宗、あるいは新政等のごく一部の例外を除いてほとんどありません。
上記の通り、生酛は安全性という点では堅固な方法ではありますが、速醸と比べると格段に手間隙がかかる上、現代の製造業に求められているレベルの再現性とか製品の均一さという点ではなかなか難しいと思います。
同じ生酛という手段で酒を造るとしても、昔と今とでは成功の難易度と求められている酒のレベルが全然違うので、どちらがどうというわけではないですが、改めて生酛は面白いなあと思いました。

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