風見鶏(しめじさん作品のカバー)/椎名ピザさん「カバー小説」企画参加
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(あと10時間。いや、11時間か?)
出勤した瞬間から、会社を出る想定時間までの『逆算タイマー』を頭の中でセットする。その後はひたすら、目の前の業務をこなす。
同僚の誰かのように要領よく立ち回ることができない。
手を抜かずに作業すると、誰かの仕事が私のもとに回ってくる。
残業も断れない。
気づけば、ひとりオフィスにとり残されていることも、しばしばだ。
心は閉じる。
昔みたSF映画のアンドロイドを思い浮かべながら、働く。
そして終業時には、少しだけ人間に戻ってしまっている自分がいる。
☆
いつも通りのそんな一日を終えて、唯一の安全地帯であるアパートの自室に辿りついた。
服も脱がぬままベッドに倒れ込むと、がさがさと肌ざわりの悪いタオルケットに鼻を押しつけ、深く吸う。
もはや感じ取ることなどできようはずもない母の残り香を、嗅ぎとろうとする。
幼い頃からのルーティンは、身体に染みついたままだ。
3歳のころから使っている、薄いピンクのタオルケット。
繊維は毛羽だち、端の方は糸のほつれも目立つ。
そもそも、子ども用なので膝下のあたりまでしか覆えない。
それでも、新しいものに替える気はない。
冬場も、わざわざこのタオルケットの上に羽毛布団を掛けて使い続けている。
なかなか寝付かずにぐずる幼い私を、そのタオルケットでふわりと優しく包んでくれた母。
微笑みながら、子守歌代わりに鼻歌でモーツァルトを聴かせてくれた母。
その母は、私を置いて病気で早くに逝ってしまった。
15年ほど前、私が5歳のころのことだった。
以来、私にとってこのタオルケットは替えのきかない『お守り』なのだ。
☆
母親の不在は、私の心から『安心』を奪い取っていった。
父と二人きりの生活。なるべく父に負担をかけないようにと、小学校高学年からは食事や洗濯などの家事は殆ど私がやった。仕事帰りの父の、疲れ切ったため息を聞きたくはなかったから。
学校では母親がいないことを隠した。
誰かに哀れまれるのが嫌だったから。目立ちたくなかったから。
空気になりたかった。
自分のしたい事なんて浮かんでは来なかったから。
誰かが遊びを決めたらそれに乗ったし、SNSで繋がろうと言われればそうした。誰かを無視しようと言われればそれに従った。心を閉じていれば、私は透明でいられた。
「あなたって、自分の主張とかやりたいことって何もないのね」
中学生の時に誰かが私に言ったが、その通りだった。
カーストが高いグループの隅っこに居場所をキープし続けながら、卒業まで何事もなく過ごすことができればそれでいい。
それが私の『生存戦略』だった。社会人となった今も、私はその『生存戦略』に従い続けている。
☆
先週、6歳年上の先輩・森下久美さんが配置転換で同じ部署にやって来た。
久美さんは仕事の覚えが早く、同僚との接し方もソツがない。
すぐに中心的な役割を担うようになり、そんな久美さんを私は心の中で羨んだ。
そして、諦めた。
私は久美さんにはなれない。
そんなことは自分が一番よくわかっている。
「相原さん、きょうも残業なの?」
アンドロイド中の私に声をかけてくれたのは、久美さんだった。
まだ少し暑さの残る金曜日の夕方、ビルの向こうへと日が沈んでいこうとする時間。
「ええ。帰っても別にやる事もないですし」
「……そう。あ、ねえ!このあと飲みにつきあってくれない?」
窓の隙間から心地良い風が入り込んできた。橙色に染まる久美さんの頬の横で、切り揃えられた短めの髪がさわさわと軽やかにゆれる。
「でも、まだけっこうかかりますし……」
「手伝うからさ。じゃあ、さっさと終わらせちゃお!」
久美さんは私のデスクに積まれていた書類の半分を手に取ると、自分の席に戻り、一度落としたはずのPCの電源ボタンを押した。
☆
「おつかれさまー。かんぱーい」
オフィスで見せる大人の表情とは違う弾ける笑顔で、久美さんはビールのグラスを掲げた。
私はまだアンドロイド感を残したまま、久美さんの向かいに座っていた。
大のビール党だという久美さんは、あっという間にベルギービールを4杯飲み干し、5杯目に手を伸ばしている。
ようやく最初のグラスを空けた私は、カシスオレンジを注文した。
「ね、相原ちゃんってさ、人生を自分のものだと思ってないでしょ」
若鶏のコンフィを口に運びながら久美さんは言った。
よく飲み、よく食べる。
ビールのCMに出てくるあの女優さんのようだ。
「……どうですかね。よく、わかりません」
久美さんをまねて、若鶏のコンフィを口にしてみる。
しっとりとした食感。ハーブの優しい香りが鼻腔をくぐりぬける。
アルコールの力でようやく、アンドロイドタイムが終わりかけているのを感じる
「そう、だよね。自分のことって、気づけないもんだよね」
久美さんは頬杖をつきながら黙りこんだ。
私は目の前に置かれたカシスオレンジを少しだけ口に含み、グラスの中の曖昧に混ざりあった液体を眺めた。
私の頭の中も、いつもこんな風に濁っている。
耳や目からインプットされる情報にあわせて反応しているだけで、思考らしい思考はしていないからだ。
先輩の顔に視線を移す。
意思の強さを感じさせる眉と、ツンと上を向いた鼻先が美しい。
「ちょっとー、なにニヤニヤ見てんのよ!?」
「いえ、久美さんの顔にみとれちゃって……」
「またまた!お世辞が過ぎるよー。自分こそ可愛い顔しちゃってさ!」
「え、そんな!ウソですよ。ぜんぜんそんなことないです」
アルコールで火照った顔がさらに熱くなるのを感じながら、言葉を続ける。
「久美さんって風みたいな人ですよね」
「……風?私が?」
「ええ。自由に向きを変えながら、爽やかに、軽やかに。私なんかは風見鶏です。風に押されて右向け右。自分なんか、ないんです」
久美さんはスッと、真面目な表情になった。
「相原ちゃん。それ、違うよ」
「……でも」
「あのね、それは過大評価だよ。私がきょう相原ちゃんを誘ったのは、彼氏と別れて寂しさ爆発状態だったから!こっちはいつプロポーズしてくれるか、なんてそわそわしてたのに『ほかに好きなコができた』って一言でポイよ。いまのアタシはただのヤサグレ女!相原ちゃんがいうような爽やかオトナ女子なんかじゃぜんぜんないのよ」
そういうと久美さんはテーブルに顔を伏せてしまった。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです……」
私がオロオロしていると、先輩は勢いよく体を起こし、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
「相原ちゃん。いーや、相原!自分は風見鶏だー、なんて言ったけど、風見鶏のなにが悪いのよ。風見鶏って、風を受け流してるんだよ。自分が乗るべき風をずっと待ってるんだよ。必要のないものを避けてよけて避け続けて、チャンスを窺ってるの。だから、あなたもいまチャンスを待っているの。そうなのよ。いいかげん気づきなさいよ。ほら、イエスって言いなさい。早く言いなさいよ…… あー、なんかグルグルするー。眠い。帰る。帰ってふて寝する。ひとりで泣いてやる!」
……ヤバい。
久美さんの感情むき出しの言葉に、閉じていた心が開く。
眠らせていた回路に電流が走る。
鼻の奥からつーんと痛みが押し寄せてくる。
返事をしたら涙腺が決壊しそうだった。
私は鼻と目を押さえながら、あわててトイレに駆け込んだ。
個室に入って扉に鍵をかけた瞬間、嗚咽が漏れだした。
「ああぁー、うぅー、うぐぅぅぅぅ」
自分でも笑ってしまうくらいの変な声が出ていた。
15分後、トイレから出ると、久美さんはもうテーブルにはいなかった。
どうやら先に会計を済ませてくれたようだった。
店の外に出ると、先輩は目を瞑ったまま店の壁にもたれ掛かっていた。
私は久美さんの右腕にしがみついた。
久美さんは、左手で私の頭を軽くポンポンと叩いた。
「……いい匂いがします」
「え?わたし?ふふ、柔軟剤の匂いだよ」
おぼろげな記憶の中の、母の匂いに似ている気がした。
母のあの匂いも、柔軟剤の香りだったのだろうか。
そう思うと、なんだか少しおかしくなった。
「ふはは」
「ふははってなによー、ふははって!おかしくないよ!」
「あはは」
「いや、あははでもないんよ!」
「あはははは」
「ちょっと、相原ちゃん、けっこう酔ってるー?あはは」
また来週ね、といって久美さんは帰っていった。
地下鉄の駅に向かいながら、私は考える。
この土日のうちに、あのタオルケットは洗濯して押し入れにしまおう。
そして新しい布団を買う。
風に流される日々は、ずっと続くだろう。
アンドロイドの時間も、なくなりはしない。
それでも。
『私の風』を待とう。
いつか吹く、私が乗るべき風を。
それが、久美さんが教えてくれた、風見鶏の矜持だ。
うっすらと鼻腔に残った『母の匂い』を思う。
……まあ、柔軟剤の香りなのだけど。
<終わり>
こちらの企画への参加作品です!
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