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「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第十二話

「なるほど。それであわてて、ここまで飛んできたってわけだったのか」

北都大学工学部の准教授・堀川晃は、2杯目のコーヒーが注がれたマグカップを恋河原美穂に手渡しながら言った。

「まあ、清原が無事だということがわかったのはよかった。しかしあれだな、アークプラズマでのシールド?バカだなあ。薄っぺらなSFオタクの発想としか思えん。そんなもの使ったら自爆がオチだろう」

「はあ」

堀川はそのまま、研究室内をぐるぐると歩き回りながらしゃべり続ける。どうやら考える時は動きまわるタイプらしい、と恋河原は思った。

「それでその、森なんとかという男は『カラビヤウ』といったんだな。なるほど。カラビ予想をヤウが証明したことで名づけられた『カラビヤウ多様体』のことだろう。我々が存在するこの世界が3次元、時間の概念を含んで4次元だとして、宇宙の成り立ちを説明するための超弦理論が成立するためにはさらに6つの次元が存在する必要がある。その6次元が極小の空間に折りたたまれているモデルが『カラビヤウ空間』。つまりその『悪魔』とやらは人間には認識できない6次元を出入り口とするゲートを開け閉めしてるってことか」

「堀川先生、あの・・・」

クロノスの会を後にした恋河原は、カメラクルーを社に戻し、そのままタクシーで堀川のものに駆け付けた。理解できないことが多かったため、紅林を介して知り合った工学教授にアドバイスを求めるつもりだったのだが、さらなる迷路に迷いこんだような気持ちになり始めていた。

「わーかってる、わーかってる。紅林と、あとその下柳ってひとをどう探すか、だろう。だけどさ・・・」

堀川はようやく、自分の椅子に戻り腰を下ろした。

「なにかペテンにかけられてるような気がするんだよな」

「ペテン?」

「ああ。こないだ学内での交流飲み会があってね。たまたま認知科学のセンセイとご一緒したんだ。これがまた妙齢のぺっぴんさんでね。唇の形が流体力学的に美しかったね」

「・・・先生」

「わーかってる!で、そのセンセイと大乗仏教の『唯識論』について語り合ったわけだ。この世で唯一存在していると確信できるものは自分の意識だけ。それ以外のものは存在していないかもしれない」

相談相手を間違っただろうか、と恋河原は思った。ただでさえ時間が限られているのに、ここで堀川の長話を聞いていていいのだろうか。そんな思いから、何度も腕時計を見るが、堀川には通じている気配はない。

「五感をすべて失った自分を想像してみてほしい。目は見えず、耳は聞こえない。臭いもわからず、味覚も触覚もない。そんな状況になった時、本当に自分以外の世界は存在しているといえるだろうか。自分以外のものは本当に存在しているのだろうか」

堀川は不意に真剣な表情になり、恋河原を見据えた。

「紅林が今いる場所は、そういう世界だろう」

恋河原の心臓は、早鐘を打つように鳴り始める。

そんな魂の暗黒の中で、自分ならどのくらい耐えられるだろう。いや、人間はどのくらい耐えられるのだろう。体よりも先に、精神的な死を迎える可能性だってある。

「ただ、言っておきたいことはそれとは別のことだ」

「?」

「さっきのペテンの話だよ。余剰次元の話と、認知科学の話は一見すると関りがあるようだが、論理としては別の話なんだ。次元のゲートの件は物理現象であるはずなのに、認知の話とすり替えられているんじゃないか。つまり『悪魔』とやらは紅林と下柳某をダシに使って、次元の話から君の注意を遠ざけている。そんな気がするんだ」

「本当の狙いは、別にある・・・」

「そう、それを忘れないでほしい。俺が思うに認知のトリックってのは、超強力な催眠術のようなものなんじゃないだろうか。ならば、何かのきっかけで解ける可能性はある。そして、彼らを救う方法があるとしたら・・・君はもうその答えを知っているんじゃないか」

櫻田の言葉や態度、そして今日起きたことを、もう一度読み解く必要がある。そのことに気づけただけで、ここに来た甲斐はあった、と恋河原は思った。

「私、自分の心と記憶を辿ってみます。そこにヒントがあるのかもしれない。ありがとうございました」

「・・・そうだ、これをもっていくといい」

堀川はデスクの引き出しから一枚の紙片を取り出すと、椅子から立ち上がった恋河原に手渡した。

「俺がもっている紅林の一番古い写真だ。新聞部時代のな」

学生服を着込んで肩を組む、2人の男子高校生。背の高い向かって右の男子に紅林の面影があった。

「ありがとうございます!」

恋河原は深々と頭を下げた。


<続く>



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