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女30歳目前 西表島へ引っ越すIriomote#01

後3ヶ月で20代が終わる、という2004年の5月末、私はわずか5万円で買った中古の赤い軽自動車「プチトマト号」に溢れそうなほど荷物を積み込んだ。大阪南港からフェリーに乗り、引っ越した先は、沖縄の西表島。

知り合いはたった1人、友人の「変わり者」のおじさんが住んでいる。

お金もなかったけど、潮風で錆びてもいいように、とにかく安い車で。
バックミラーが見えないくらい、ぱんっぱん。これで新生活を始めるんだから。


その西表島で4年間、私は島で唯一のマッサージ店『Healing Salon Terra』をしていた。借りた部屋の目の前の「まるま浜」はまるで、プライベートビーチ。東側の海なので夕日は金色ではなく、太陽が島の反対側の落ちると薄いピンクから紫へと空の色が優しく変化する。その時間に、ビーチにマッサージベッドを出して、波の音を聞きながらマッサージが受けられるというお店として、知る人ぞ知るお店となることができた。


ここからまるま浜に入る。向こうに見えるのは、サンゴが堆積してできた島、バラス島。
スノーケルツアーで行くことができる。


写真が小さいのは、昔ガラケーで撮った写真だから。それでも、この美しさ。


「自然に身を委ねる」
「自分が自然の一部だと体感して、安心して流れに乗る(それが激流だとしても)」
ということができるようになったのは、西表島の大自然の中で、ちっぽけなひとりとして生きた体験があるからだと、思う。


西表の海と空。いつ撮っても美しい。なんとなく、左右対照な雲。



西表に行く前。 沖縄本島の家族


芦屋で初めてのマッサージのサロンを開店して1年。予想以上に軌道に乗り、お一人お一人に全力を尽くす型の私は、ありがたいことにキャパオーバーとなった。サロンにかかってくる予約電話を取るのが怖いくらいになり、逃げるように沖縄旅行へ行った。そしてこれは予想はしていたが、沖縄の虜になって、毎月のように通うようになった。(好きな人もできたんだけど、恋多き女だった私には、これも想定内。笑)


関西の情報誌「Hanako West」などに掲載され、おかげさまで人気店に。


2度目か3度目の沖縄旅行の時。
大阪の友人ルカちゃんが泊(とまり)のユースホステルで出会ったというチーコさんを紹介してくれた。と言っても、住所のメモをもらっただけ。
まだまだ暑い夕方、那覇の裁判所の方へテクテク歩いていって、
「え?ここ?」と細い路地を入り、コンクリートの階段を上って、洗濯機の横のドアから覗いて
「ち、ちーこさん、いますか〜?」と聞いてみたら、(だって本名も聞いていないんだから!)
「ああ、ルカちゃんから聞いていたよー」
と気さくなチーコさんが現れた。

小さなリビングに、家族が集まっている。まだ小さな赤ちゃんもいた。なんとチーコさんのお孫さんだって!チーコさん、40歳くらいなんだけど?

こんな親戚の集まりに、私みたいな他人がいていいんだろうか、と思いもしたが、誰も何も気にしていないので、私も一緒に飲み食いしていた。途中で帰ってきたチーコさんの旦那さんのアキラさんは、現場仕事の棟梁。チーコさんよりだいぶ年上みたいだけど、俳優みたいな、いい男。

家なのに、居酒屋みたいな透明のプラスティックのお冷を入れるジャグがあって、そこに氷がたくさんと、泡盛の水割りがなみなみと入っていた。
何をご馳走になったかは、すっかり忘れてしまった。

みんな酔っ払って、夜も更けて、「さあ、そろそろおいとましなきゃ」と思っていたら、「さきちゃん、泊まっていくよね?」とチーコさん。
そっか、それでいいんだ。と甘えることにした、んだけど。このお家のどこに寝るのだ?!リビングのソファではアキラさんが寝ちゃってるし。奥の部屋はお姉ちゃんの個室みたい。

なんと答えは、高校1年生の息子ヤッくんの部屋でしたーー!!
27歳、一応女盛りのつもりの私、2人きりで寝ていいのか?と思ったけれど、そこしかないもんね。ヤッくんのベッドの下に寝ましたよ。何もなかったけど。(ドキドキしてたのは、私だけ?笑)


そんなふうにして、私はチーコさんの家に、いつくようになった。すっかり家族だった。私がご飯を作ることも多かった。ナーベラーチャンプルーやヒラヤーチーなど、沖縄料理を教えてもらって、チーコさんと一緒に作るのも楽しかった。
人気のかき氷を食べに首里に行ったり、近所にできたタイ料理を食べに行って特別なバジルの種をいただいたりしたのも懐かしい。



チーコさんの家から、旅にも行った。
ダイビングをしに行った慶良間諸島の阿嘉島を気に入って、よく通った。
1日に1本のんびり潜って、あとはビーチで仲良くなった友だちとお話ししたり、星を眺めながら飲んだりしていた。そのうち、機材を背負うのも面倒になって、シュノーケルで素潜りするだけになっていったけれど、思い出す阿嘉島の海の中は、荒廃していた。その頃の慶良間諸島はサンゴが本当に酷く白化していたのだ。
「大きな台風がしばらく来ていないから」と聞いた。
台風によって海をかき回さないと、海水温が高くなってしまって、サンゴが死んでしまうのだと。
サンゴを食べるオニヒトデも大量発生していた。駆除のボランティアをしたこともある。オニヒトデを見つけたら、モリで突き刺して殺すのだ。見るからに毒々しいオニヒトデだが、嫌われてこんな殺され方をされるなんて、かわいそうだとも思った。


美しく有名な阿嘉島のニシ浜。「ニシ」とは「西」ではなく、「北」の意味。もちろん島の北側にあります。ちなみに西表島を「イリオモテ」と読むように、「西」のことは「イリ」。「東」を「アガリ」と呼ぶ。音の通り、「太陽がイル=入るのは西」「太陽がアガル=上がるのは東」では「南」は?「フェー」や「ハイ」「パイ」。石垣の「ぱいぬしま空港」はご存知、「南ぬ島空港」。


美しく見える海も、中は寂しかったのを覚えている。


見るからに毒々しいオニヒトデ。確かモリでさすと臭かった記憶が。



アキラさんの実家のある玉城にもよく行った。
アキラさんは、ご存知の方も多い人気カフェ「浜辺の茶屋」一家のご長男。その頃はお母様も生きていらして、玉城のお家でお盆を一緒にしたこともあった。海を見下ろす斜面に立つ家の外で、あの世でのお金「ウチカビ」を燃やしたのを覚えている。今ではお母様のお顔も思い出せなくて、薄暗い玄関先とオレンジ色の火が、すでにあの世だったかのように記憶に残っている。

浜辺の茶屋。あれから20年たっても、南部の名所、人気カフェであり続けているのがすごい!
新原(みいばル)の海は、私が沖縄本島で初めて行った海。



沖縄に行くことが辛くなった


「こんなに沖縄に来るなら、もう住んじゃえばいい。」

そう思う人は多いと思う。
マッサージという私の体ひとつあればどこでもできる仕事を選んだだけあって、すぐに「沖縄に移住して、お店をしよう!」と思った。


離島は好きだけど、仕事をするのなら、やっぱり本島でしょう。アクセスが良くて、人口も多い。

那覇には家族があるけれど、私はビーチでマッサージをする、というのに憧れていた。タイのクラビだったか、ピピ島だったか、ビーチでのマッサージを受けたことがあったのだ。
目を閉じると波の音が聞こえていて、汗ばんだ肌の上を風が流れていくのが、どうしようもなく心地よかった。マッサージをしているおばさんたちが、まったく理解できない言葉でおしゃべりしているのが耳に入るのもよかった。

ビーチでマッサージするとなると、那覇では難しい。
読谷村では友人の髙橋アユムくんがビーチロックハウスを始めていた(後に今帰仁村に移転)。本島でリゾート地といえば、恩納村。そのあたりを目指して、レンタカーでくまなく走り回って、お店となる物件を探した。
沖縄の路地は狭い。行き止まりだと、バックで出てこないといけないところも多かった。
時間切れで芦屋に戻ってはまた沖縄に飛んで、地図を見ながら、路地という路地まで入った。けれども、何日も何日も走ったのに、ピンと来るところは、一軒もなかったのだ。


読谷村の漁港にある「海人食堂」の「イカスミ汁」。
真っ黒で美味しくて、通るたびに食べていたなあ!


なんだか焦ってきて、沖縄に来るのが楽しくなくなってきた。
いつもならワクワクしながら飛行機を取るのに、「あーあ、また見つからないのかなあ」と思うと、気が重い。
あんなに好きだったのに、、、と思った時、ハッとした。

「私が楽しんでいないのに、いい場所が見つかるはずがない!
もう、お店の場所探しとか、そんなのは考えずに
ただ楽しんで行こう!沖縄に来始めた頃のように」

そう思うと、俄然、行きたくなったのは離島だった。
「離島が好きなのに、仕事をするなら本島」
と思ったのが、間違いだったのかな?


これまでに行ったことのない西表島に行こう、と決めてフライトを取った時に、私は芦屋の部屋で、ひとりガッツポーズ!
離島へのフライトは格段に高かったけれど、次の沖縄旅行が、心から楽しみになった。


西表島といえば、海だけでない山や河の魅力も。巨大な板根、サキシマスオウの木。



宮古島にも竹富島にもない、私が西表に惹かれた理由は?

Iriomote #2 につづく




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