櫻坂46in東京ドームで観た『静寂の暴力』


静寂という名の音が存在する
ここには、音も光もない
あるのは、静寂。
暗闇に吸い込まれるように全て無になる。



色んな楽曲が披露される中で、かなり印象的というか衝撃だったのが、『静寂の暴力』だった。
1日目の公演で、このパフォーマンスを観た人たちの興奮が収まらないようなつぶやきがドドドッと流れてきた。それを読んで、今日も披露してほしいと思いながら、配信で櫻坂46東京ドーム公演2日目を観ました。


この曲は好きな楽曲のひとつ。
私にとってこの日どの楽曲よりも一番観たいパフォーマンスだった。
その『静寂の暴力』を観て感じたことを残しておこうと思った。


会場を照らしていた全ての照明が消える。

東京ドームが暗闇に包まれ、会場のざわめきが一瞬にして静まり返り、光に照らされた花道に立つ山下瞳月さんへ一気に会場の視線が集まる。
コールも、明かりもない、静かな空間で誰もがあの時間、耳を澄ましているようだった。
私も食い入る様に画面に釘付けになった。
曲はまだ始まらない。
会場に響くのはステージで踊る三期生の無音のダンスにその足音だけ。
まさにあの時、『静寂』が存在していたと思う。

このパフォーマンスを観て私は泣いてしまった。
好きな曲のパフォーマンスを初めて観たのもある、三期生のパフォーマンスに胸を打たれたのもある。
気づいたのは、無意識にこの楽曲と自分を重ねていたんだということだった。
私は片耳が全く聞こえない。もう片方の耳も補聴器をして周りの音や声に集中して耳を傾ければわかる。それは私にとっての日常。


この日のこのパフォーマンスは、自分のそばにある『静寂』だった。
冒頭に書いた言葉は、暗闇の中、一筋の光だけに照らされた花道を山下瞳月さんが歩くとともに、映し出された言葉だ。

圧巻だった。
「喋りたい願望を捨てて、沈黙を愛せるか?」
声を震わせながら振り絞って放ったかのような一言だった。この言葉が放たれる前の沈黙は、会場全体が作っていた空間だったと思う。

その空間のなかで踊る三期生の何かを訴えかけるパフォーマンスに表情に苦しくもなったし、勝手に色んな感情が溢れてきた。
声にならなかった言葉、発言されなかった言葉を「ほんとうの気持ちだ」と思ってしまうし、だからこそ言葉を発するとき、それが本当の思いだと信じてもらいたくて、泣いたり、叫んだりもしてしまう。言葉を声にすることは「伝えようとする」こととも同義であって、だからどうしても意識的になってしまうし、そう聞こえてしまうのだと思う。歌もまた声で、沈黙よりもさらに衝動的なもののように感じた。
大切な人や好きな人の声が聞こえること、好きな曲が聴けること、分かること、それは嬉しいことであり、安心だ。
この曲に込めた三期生が伝えたいメッセージと私が感じたことは違うかもしれない。
それでもこの曲が"寄り添い"に感じていた。



桜は儚さの象徴とも見えるし、確かにあっという間に終わってしまうさみしさはあるのだけれど、桜ほど約束を守ってくれる、という感じがする花もなくて。
来年も必ず咲いてくれる。だから、そこに桜が咲いていたなと芽吹き前の桜の木を見て、満開に咲く桜を思い出すのだと思う。
そのまっすぐな、儚さも見返すような誠実なところがいいなと思う。

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