見出し画像

210817

親友が結婚したとき、おめでとうとこころからおもったけれど旦那さんを知りたいとまではおもわなかったし、おなかがおおきいときにもぶじにうまれてからも、彼女のあたらしい家族を知りたいとはおもわなかった。こどもの名前にわたしとおなじ漢字があるのを見て、なんともいえないきもちになった。報告を受けてお祝いをつたえてからとくに連絡をしていない。車をとばせばすぐのところに住んでいるのに会いに行っていない。せわしないだろうから、なんていうのは気づかいでなくじぶんにたいして取り繕っているだけのよう。こどもができたら話も合わなくなるだろうな、そういう知りあいがふえてもっと疎遠になるかな、それもとくにかなしくはなくて、ふかくつきあったたいせつなひとだけれど、そういうものだともかんじる。

こんなわたしのあたまのなかを知ったら、彼女はどうおもうだろうか。そんなことをかんがえながらいつものように携帯電話を閉じる。サポート終了のガラケー画面にあらわれたちいさな黒い線が毎日1センチずつ伸び、ついに画面の端から端をむすんだ。いよいよおわりかと買い替えに重い腰をあげたら、二週間おいてこんどは1センチずつ消えはじめ、ほとんどもとどおりになった。準備がととのったせいか、いつ壊れるかというちいさな危惧だけがなくなっていた。いろいろくたびれた過去の年月をつぶさにおもいおこすこともなくなって、そのときにえた、死ぬまで生きる、というシンプルな基軸だけがいまもきっちり据わっている。それを遠く近く見まもってくれるひとがいる。八月なかば、夏まっさかりのはずがエアコン不要のすずしさでセミの大合唱が聴こえていた。