noteという場所を思い出した
いまある環境が急に変わるかもしれない。
いまある当たり前が、当たり前じゃなくなるかもしれない。
子供の成長、ステージの移り変わり、社会の変革、仕事の変化、それとも事故、病気、死。自分だけではなく家族や子供へ起こる変化かもしれない。
良い意味でも悪い意味でも、すべてのものは変わっていくと思う。ずっと一緒のものなんてない。
メインの事象の記録だけじゃだめだ
きょう、数年前に更新が止まっている自分のnoteをだらっと眺める機会があった。
あのころ、ずいぶん熱量を注いできたnoteでの投稿。覚えていることより、忘れていることが多い。特にあのころどんな事を考えてこの記事を書いたのか…などは忘れている。
子どもたちの大量の写真や動画、数年前に記録したものを見返す。印象的なこと「だけ」覚えていた。
忘れてしまう。
最近聴き始めたポッドキャストで「その人がどういうことをしたかというのは、その人だけじゃなくてその人が生きていたその時代背景も見ていかないと、ちゃんと理解できない」ということを言っていた。
自分も、メインのやってきたことだけ、例えば「消しゴムはんこをあるお店に置いてもらった」とか記録に残っていても、その時なんでそんな事考えていたかとか、自分を取り巻く環境だどうだったかとか残ってなかったら、なんでそうしたのかとか詳細に思い出せないんじゃないか。自分のことなのに。
断片的な感情の記録・記憶の場としてのnoteとして使う
印象的なこととか「ちゃんとした記事」だけじゃなくて、「その頃だらっと考えていたことや感情の記憶」も残しておけば…あとから思い出したときに何を考えていたのか自分が思い出しやすいんじゃないかなと考えた。
ツイッターは日常的に使っているけれど、あれはフロー…時間とともにつぶやきは流れていってしまうので「思い出すツール」としては不向きだ。
自分の消しゴムはんこ用のウェブページ…これは「消しゴムはんこ用」としたい。用途別に分けておきたい。
そんなときにnoteという場所を思い出した。
常に変わっていく環境、心境、それをあとから思い返したい。思い返すことで、そのころの成功や失敗、その他諸々の経験をうまく未来に託せるんじゃないか、と思う。
また、環境の変化で急にそれが「できなくなる」こともあるだろうし、それは突然やってくるかもしれない。誰もわからない。
だから、自分がやりたいから、自分のために、もしかしたら自分が急に動けなくなったときのために、そういう場所としてnoteを再開してみる。
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