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「思考力・判断力・表現力」は「従来の学力」と何が違う?

 文部科学省から新しい「学力の3要素」なるものが示されていて、学習指導要領改訂も大学入試改革もその線に沿って進められている。

① 知識、技能
② 思考力、判断力、表現力
③ 主体性、多様性、協働性
 (主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)

 このうち①は「従来の学力」と思えば良いのだろう。さて、今日のテーマは「それと②『思考力・判断力・表現力』では何がどのように違うのか?」である。

◇      ◇      ◇

 知識と感性の間に「思考」がある。知識を積み上げるだけでは、あるいは感性を働かせるだけでは、考えたことにならない。感性から発想を得て、知識を道具として使うことで「考える」ことができる。
 現実と希望の間に「判断」がある。現実を受け入れるだけでは、あるいは希望に胸ふくらませるだけでは、適切な判断はできない。現実を観察して、目標を定めて、ようやく「判断」する準備が整う。
 事実と感想の間に「表現」がある。事実だけを並べても、感想だけを述べても、何も示したことにならない。事実を根拠として、また感想を動機として、事実でも感想でもない一つの「見方」を示そう。

 知識・現実・事実の括りを「正しいもの」と呼ぼう。その名の通り、誰が見ても正しいものだ。また感性・希望・感想の括りを「自分の世界」と呼ぼう。自分がよって立つところ、すなわち自分である。
 そして「正しいもの」と「自分の世界」の間に「思考・判断・表現」がある。その括りを「ものの見方」と呼ぼう。新しいものを生み出したり、次から次へと現れ出るいろいろな問題を解決したりするのは、この括りである。

創造・解決

一番大事なのは、真ん中だ。考えるとは、つなぐこと。

 学校では「事実」と「感想」は扱うのだけれど、その間すなわち「見方」の部分がすっぽり抜け落ちている。社会で求められるのは、自分で考えて判断して行動すること。知識だけでも、感性だけでもそれは為しえない。
 学校についてもう少々語ろう。日本の学校では「知識」の習得を中心にしながら、それだけでは足りないと、もう一方で「感想」を書かせてきた。
 「知識」は答えが1つに決まる。つまり、○✖️がはっきりする。先生の立場からすれば、知識は客観的な評価ができる。だからテストの採点について、誰からも文句を言われない。
 一方の「感想」は何でもアリ。要するに、言いたい放題である。先生の立場からすれば、否定も肯定もせずに、勝手に言わせておけばいい。そうしておけば、誰にも責任を問われない。
 ところで、知識と感想の間にもう一つ大事なものがある。「ものの見方」である。これが「思考の素」であり「判断の種」であり「表現の対象」でもある。
 けれども、先生の立場からすればそれらは手に余る。答えが1つに決まらないからである。多様性と妥当性があるからである。そしてこうなると、知識のように客観的な評価はできないし、感想のように放置することもできない。
 そこで先生はどうするか。それを知識か感想かのどちらかに振り分けようとするのである。知識側に振り分けて「正しくないからバツ」、もしくは感想側に振り分けて「勝手に言ってろ」と。こうすれば先生は、誰からも文句を言われず、誰にも責任を問われない立場を維持できるわけである。
 これが、日本の学校の最大の弱点だ。致命的な欠陥だ。

 では、どうすればいいか。処方箋はただ1つ。先生たちから「客観的な評価」なるものを奪い取るしかない。そうすればきっと、というより案外それだけで真ん中の「思考・判断・表現」に軸足が移る。そして私たちの「創造力と問題解決力」が花ひらく環境が整うだろう。めでたしめでたし。

◇      ◇      ◇

〜 思考力・判断力・表現力を育む
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