ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」

ロングランを続ける本作品は、デザインされたトイレを世界に広げることに成功した。しかし、映画として成功しているのだろうか?
多くの人が主人公平山のトイレ清掃員としての穏やかな生活をおったストーリーに言及している。彼の生活が理想のものだという声が多い。
そして、そのストーリーは、今流行りの(と言っていいと思う)詳細が語られない、観客がその隙間を想像で埋める内容になっている。それは、ケリー・ライカート、濱口竜介、杉田協士の各作品のストーリーに似ている。
この三人は世界レベルの作品を作っている。しかし、彼らのレベルに本作は至っていない。
何故なのか?それは、本作の映像がストーリー以外の何も語っていないからだ。
平山が外からの聞こえる箒で掃く音で目覚める部屋は、何か「いわくありげな」ライティングが施されている。窓外から入る光は光は紫がかっていて、部屋全体が早朝とは思えない光量で照らされている。「静的な」平山の生活に「聖的な」印象を与えたかったのだろうか?ポスターにもなっている平山の部屋が「奇妙に」「光り輝いて」いる。それは、平山の生活の厳かさを印象付けるが、そこには映画的な要素は要素は無いように見える。
平山を蔑ろにする利用者と、1つのトイレの近くに住むホームレスや迷子の子供、そしてニコと呼ばれる平山の姪の平山に共感または共鳴する振る舞いと対比するように描かれることで、繰り返し描かれるトイレ掃除という行為に「聖なる何か」を付与しようとしているように見える。
映画的な要素を探しながら観ていたが、ついぞそのようなものは本作品には観られることはなかった。個人的な感想に過ぎないが、先にあげた三人のトップランナーである監督の作品には見つけることができたので、大きくその感想が外れているとは思えない。
本作でどうしても納得できなかったシーンは、下北沢の中古ショップのシーンだ。平山が持っているカセットが高額で売れることを知った同僚が、売るつもりがない平山からカセットを奪い、店内を逃げ回ったあと、諦めてカセットを平山に返した後、店内をロングショットで捉えるカットがある。このカットが歪んだセキュリティーカメラの映像のように見えるのが、目を疑うような醜さだった。これは、店内を声を出しながら逃げ回っていた同僚を店内の客が不審な目で見る様子を捉えたかったのか、はたまたコミカルな効果を出すために、同様の浮いた行動が店の雰囲気にそぐわない様子を見せたかったのか、その意図も分からない。しかし、何か後味の悪い、観たくないショットだった。
それに加えて分からなかったのは、平山が車で移動するシーンはほぼ首都高を走るショットで構成されており、東京スカツリーが頻繁に捉えられるところだ。これも首都高やスカイツリーのプロモーションの意図があったのだうか?
そして、恐らく本作の総括的なシーンとする意図の隅田川の護岸での三浦友和と役所広司の影踏みは、なんとも言えない白々しい余韻を残して、映画的何かが起こりそうで、起こらないという最も観客に持たせたくない印象をこのクライマックで感じてしまった。
そして、最後の役所広司の泣き顔に変わっていくシーンも、不完全燃焼な印象となり、終劇となった。
The Animals、The Kinks、Van Morrisonと劇伴として流れる音楽のみが自分の好みだった。
最後にもう一つ。姪の名前がNico(とあえてThe Velvet Undergroundのシンガーの名前で書くが)とするところは、Lou Reedへの敬意なのか?

追記:
木漏れ日を作り出す木を地面から役所広司がフィルムカメラで撮影する際に、頭上の木の枝が空を背景に茂っているショットが出てくる。
「悪は存在しない」にも同様のショットが(こちらは移動ショットだが)あるが、ショットから受ける印象はまるで違う。
本作のそれが役所広司がカメラを向ける被写体であり、物語を語るショットしかないのに対して、「悪は〜」のそれは、森を歩く主人公の見ているものという物語的な装置ではなく、題名にある「悪」を表しているようで、不気味な存在として意味的な物語の一部ではない形で映画に貢献している。

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