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メルカリに出品する人

メルカリに出品する50代や60代の人の割合が増えているというバラエティー番組を見ました。私(60代)もいつか不用品の整理にメルカリを使ってみようかなあと思っているので以外だとは思わない。だって、年齢が上がれば、知らず知らずのうちにため込んでしまった不用品の数は多いでしょうから。また手芸とかをする人は、作品を売って少額でも手にできれば、楽しいかもしれない。でも、この番組で驚いたのは、ある高齢の方に対する番組ナレーターのコメントです。その人は不要になったアクセサリー(貴金属ではなく、コスチュームジュエリーか、それ以下の数千円で買ったようなアクセサリー)を相応の期間、売っていて、それが生きがいのようになっているといいます。(何年も…?どんだけ持っているの?でもまあ、そのことは一旦、置いておいて。)ナレーターは、「こうして、人とゆるく人とつながることを楽しんでおられるのですね!」みたいなことを言っていました。

最近、「ゆるいつながり」とか「斜めのつながり」とか、よく聞きます。でも、メルカリの場合は、売り手も買い手も基本的に匿名です。だから、たとえ、この方が「人付き合いの少ない一人暮らしの老人」というカテゴリーに入っていたとしたとしても、誰かとつながったことにはならないのではないのかしか。ゆるくつながるって、どういう意味でしょう。

私はボランティアとかをする中で「ゆるいつながり」という言葉をよく聞くのですが、もうひとつピンと来ないのです。だって、ひとり暮らしで寝たきりとかでなければ、社会の誰かとつながっているはずです。この方の場合も、お元気のようなので、日常的な外出はされるでしょう。それならば、スーパーやコンビニの店員さんとか、役所や郵便局の窓口係とか、歯医者さんの受付とか、顔なじみの方が数人はおられるはずです。でもそれは「ゆるいつながり」とは言わない。むしろ、顔も名前も知らないメルカリで売買する人たちの関係を「ゆるいつながり」という。

その理由を考えてみると、ふたつのことが思い当たります。まず、メルカリ出品は、「私はここにいますよ~」という、自己の存在証明みたいな意義があるのだと思います。スーパーの客というだけでは、自分の存在が認知されたことにならない。自分は特別な人ではないから。メルカリに出品した商品は、ある意味、出品者の分身で、それに価値を見出した人が、それを購入する。つまり、その人は名前や顔は知らなくとも、自分の価値を見出してくれた人。自分を特別だと言ってくれた人。だから、アタッチメントを感じる。次に、商品を気に入って買ってくれた人は、そのやりとりを通して、私が小さな幸せをあげれた人。自分がハッピーにしてあげることができた人。そこに自分の喜びがあり、アタッチメントを感じる。

ここから導ける人のあり様とは、自分の価値を認めてくれる人、自分が喜ばせてあげれる人、私たちが心も体も元気に生きていくためには、そういう人たちが必要だということかもしれません。

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