「1987→/スピッツ」に奮い立つザコキャラの私

スピッツの「1987→」はそのタイトルがバンドの結成年を示す通り、スピッツの結成30周年の節目の曲で、インディーズ時代の曲がオマージュされていたり、歌詞と彼らの歴史がリンクしていたりと、バンドの長い歴史を知る人にとっては感慨深い内容……らしい。

私はそれほどスピッツ史に詳しくないので、細かい要素が理解しきれずもどかしいのだが、背景は知らずとも、この曲はクラスや会社でモブキャラのように生きてきた私みたいな人が奮い立つロックだと感じている。

モブキャラやザコキャラな自分を卑下することもなく、かといって、皆ヒーローだなんて信じきれない言葉でごまかすこともない。
日陰にいた者が恥ずかしげもなくかっこつけて進むことを、まっすぐに認める強さがある。

歌詞の中で、このバンドがどういう気持ちで始まって、どういう思いで今も音を鳴らしているのかが語られている。
私は、「ヒーローを引き立てるザコキャラ」の自分と違う面を見出すべく(「無慈悲な鏡叩き割る」という強い表現がこれまた決意を感じてかっこいい)、「犬が狼ぶって」「らしくない自分」になるが為に始まった…と、このバンドのスタートの経緯を受けとった。

「自分らしく生きる」とか「君といると自分らしくなれる」みたいな歌をよく聞くけれど、自分らしいとは何か、本当にその「自分らしい」自分に皆なりたいのか、と考えるとわからなくなる。

はたして、歌詞に多用される「自分らしくいる」ことってポジティブなワードなんだろうか。

これをポジティブだと捉える人って、比較的傍から見た自分が良い印象の人なのではないかと思う。
成績優秀とか容姿端麗とか、周りからの評価も高い人が「本当はダメなとこもあるんだ。君の前だとそれを気にせずさらけだせるよ」というイメージ。

もちろんそれ以外にも、仮面を被ることに疲れた人とか、本音を誰かに話したい人とか、いろいろいることもわかるけど。

ただ、コミュニケーション下手なスクールカーストの下位から社会に出てきた私なんかが、「私、本当は根暗で普段は無理して明るくふるまってコミュニケーションをとっているけど、あなたの前では無理せず暗い性格でいられるので落ち着く」って言う場合の「自分らしい」は美しくない。

例えば恋人と過ごすとき、普段なら少しためらうようなおしゃれをして、柄にもなく饒舌になって、興味もなかった相手の趣味のことをアクティブに学ぼうとする私は、明らかに「私らしくない」が、私がちょっと私を好きになれる時でもある。

だから、「らしくない自分になりたい」って、私の中では「自分らしくありたい」より共感してしまうのだ。
ありのままでいることももちろん素敵だけれど、かっこつけ続ける事もそれはそれで素敵だと思う。

ただ、心のどこかで「でも結局私なんてザコキャラだしね。一時的に無理してらしくなくなったところでね」なんて自虐的にもなるのだけど、曲の中のこのバンドはこう歌う。

「それは今も続いている」
「妄想が尽きるまで」

そう歌われたら、私も「らしくない自分」になるために動くべきなんじゃないか。そう思える。

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ついでにもうひとつ言うと、「ハートを汚してる」の歌詞もすごく好きだ。
“きれいなものを守ってあげたい”より“きれいなものに自分の痕跡残してやりたい”という心情の方が理解できる。

でもそれって結構ザコキャラの心情な気もしている。
自分がヒーローだったら、相手と長く続く関係になるし、相手を浄化できる存在になりたいだろう。
一方、引き立て役で負けが確定している状態、短命な関係なら「汚したい」になるかな、と思ってしまう。
「汚したい」はあくまで「汚したい」で、「汚し続けたい」とは思わないから。
「私が汚したものがずっと残ってくれればいいな」とは思うけど。

その言葉の選び方にもなんかヒーロー感がなくて、私には刺さってしまった。

この曲、もしスピッツという存在を知らずに聞いたら、“30代の売上的にはパッとしないけど続けてきた熱いバンド“の曲だと思いそう。
これがミリオンセールスも記録した50代の内容だなんて。
改めて、かっこいいバンドだ。


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