「存在感/KREVA」を聴いて、説教される立場にいない自分に気付いた


「存在感」がリリースされた際、KREVAが各所のインタビューでこの曲を「説教ソング」と語っていた。

いわゆる応援ソングというものに食傷気味だった私は、「どんな説教かましてくれてるのかな」と期待して聞いてみたのだが、「全然説教じゃないじゃん」というのが第一印象だった。

そこから何回か曲を聴くうちにふと気付いた。
あれ?これが説教だと思わない自分やばいな、と。
なんだか、ぞわっとした。


私は怒られるのが大嫌いで、叱責されるとなにくそ精神が発動するよりも先に心が折れちゃうタイプである。
一方で、天邪鬼にも怒られないことも悲しくなる。

思い返せば新入社員だった時、これは怒られると確信するほどにめちゃくちゃミスってしまったことがあった。

怒られるのを覚悟し、震えて出勤。
ところが、全くお咎めなし。
「なーんだ、許してもらえる程度のミスだったのかー」と安堵していたところ、先輩が上司から「ちゃんとあの人(私)に指示しなかったからこうなったんだろ」と叱責されているのを見てしまった。

怒鳴られた先輩はまっすぐ上司に謝罪し、その後私と顔を合わせたときも嫌な顔ひとつせず、何も言えなかった私に「ごめん。ちゃんと教えてなかった」と言った。

あれは誰かに怒られるより、めちゃくちゃに落ち込んだ。

怒られるのは期待を下回った時であって、私はできることを期待されていない人間なんだ…と知った。
そして先輩の態度がまさに期待される人そのもので、自分がそのステージから遠すぎるとこにいることを痛感したのだ。
今思えば新人なんてそんなもので、私が第三者であれば「気にすることないよ」と言う話だけど。



「存在感」を聴いてぞわっとした感覚は、あの時と似ている。

KREVAが説教したのはここまである程度の実績を積んだにも関わらず、あと一歩何かが足りない者だった。


私の周りだっている。
それなりに出世もしているから、名前は知られていて、仕事も失敗なくコツコツやっているけど、特筆する功績は誰も思い浮かばない、“代表作”のない人。
表舞台に立つのが好きで議論の場でも良い発言が多く“存在感はある”けど、その議論を形にして讃えられるところは別の人に獲られてる人。

みんな頑張っていないわけじゃないし、現状が悪いわけでもない。だから別に嘆くこともない。
でもきっとあの人たちは「決定打」を打つ能力はある人たちだ。
本人が現状に満足しているのならば何も言うこともないけれど、自分で満足だと思い込ませて何か諦めていたならばもったいない。

KREVAはそんな人たちにさらなる成長を促す説教をしている。


そして話は最初に戻り、この曲が刺さらなかった私はなんなのだろう。
それどころか「え?KREVAは代表作あるじゃん!そんな自分のこと卑下しなくても…」なんて思いながら聴いていた。

存在感すらない自分から無意識に目を逸らして。


頑張っている人への「頑張れ」という言葉が否定されがちな昨今だけど、「頑張れ」と言ってもらえることもそれはそれで幸せなことである。

私は鼓舞する価値のある人間になりたい。


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