北九州キネマ紀行【八幡編】竹久夢二がいたまち枝光|竹久家が暮らした大正の活動写真館をたどって
夢二は枝光に住んでいた
大正ロマンの美人画家、竹久夢二(1884〜1934)は明治の一時期、今の福岡県北九州市・八幡の枝光に住んでいた。
そして、創業期の八幡製鉄所で働いていた。
それは彼がまだ何者でもなかった、15歳から17歳ごろのこと。
夢二は程なく家出して上京したが、家族は大正まで枝光に住んでいたという。
夢二と八幡、そして大正の八幡の活動写真館(映画館)事情をたどってみたい。
製鉄所で「筆工」として働いた
夢二は1884(明治17)年、岡山県生まれ。
夢二の一家(両親や姉、妹ら)は1900(明治33)年2月、当時の福岡県・八幡村の枝光に転居した。
なぜ転居したのか。
その頃、八幡村は畑と塩田ばかりの寒村だったが、国は1897(明治30)年、この村に製鉄所を造ると告示。
巨大な国家プロジェクトが立ち上がるとあって、各地から仕事を求める人たちが八幡にやって来た。
夢二の父親も、その一人だったのだろう。
父親は製鉄所の下請け会社の作業員を斡旋する仕事をしながら、貸金業を営んでいたという。
家出して上京した
夢二は製鉄所の製図室で「筆工」として勤務。
「八幡製鐵所80年史」をめくると、確かにこの頃、筆工という職名があったことは確認できるが、夢二が具体的にどんな仕事をしていたのかは分からない。
ただ、この頃から「筆」と関わるセンスがあったのかもしれない。
夢二は枝光での暮らしが馴染めなかったのか、翌1901(明治34)年の夏頃、家出して上京。1902(明治35)年には早稲田実業学校に入学している。
つまり、夢二が枝光にいたのは1年半ほどだった。
「おとうさんが描いた絵をあげます」
夢二は枝光の家を出たが、竹久家は1925(大正14)年ごろまで枝光に住んでいたという。
東京に出た夢二は1907(明治40)年、岸たまきと結婚。
長男・虹之助が生まれたが、虹之助は枝光の実家に預けられた。
虹之助は1914(大正3)年4月から八幡尋常小学校、1920(大正9)年4月から八幡高等小学校に通ったという。
今回、夢二と八幡の関係をリサーチしていて、興味深い資料を読むことができた。
それは森鉄蔵氏が雑誌「九州人」の1978(昭和53)年2月号に発表した「見つかった八幡の夢二居住跡」というエッセー。
森氏はこのエッセーで、それまで不明だった竹久家の居住地跡を突き止めたことを綴っている。
エッセーは、そこに至るまでの経過を主に記したものだが、森氏はなんと虹之助が八幡高等小学校に在学時、図画と体操の先生だったという。
エッセーには、森氏が虹之助から、当時人気の出ていた夢二の絵を贈られたという、興味深いエピソードが記されている。
さて、これはどんな絵だったのだろう。
枝光で前妻の夢を見た
名を知られるようになった夢二は1918(大正7)年8月から9月にかけて、長崎などを旅行し、途中、枝光の実家に立ち寄っている。
ここで夢二は、前妻・たまきの夢を見たという。
(夢二はこの時、たまきと離婚し、別の女性〈笠井彦乃〉と結ばれていた)
夢二の日記には、こうある。
夢二は、枝光の実家に泊まったのだろう。
たまきへの思いは消えていなかった、ということか‥‥。
枝光にある夢二のモニュメント
さて、北九州の八幡・枝光には夢二のモニュメントがいくつかあるので、ご紹介したい。
まずはJR枝光駅(鹿児島線)。
ホームの駅名表示板には、夢二の「宵待草」があしらわれている。
ここから、しばらく歩くと、「夢二通り」があり、夢二作品を紹介するモニュメントがある。
夢二家の居住地跡を示す碑も。
北九州市八幡東区山王1丁目にあり、「風まどい 夏色の影 夢二あと」と刻まれている。
さらに、ここから近い「諏訪一丁目公園」には、夢二の文学碑がある。
「宵待草のやるせなさ 夢二」と刻まれている。
「宵待草」は夢二の詩に多忠亮が曲をつけたもの。
この曲は、夢二が枝光の実家を訪れた年(1918〈大正7〉年)の9月、セノオ楽譜から出版された(表紙絵は夢二)。
(以上はJR枝光駅から歩いて行ける距離にあります)
いくつもの活動写真館があった大正の八幡
ここからは、竹久家が枝光にいた大正期の八幡の活動写真館の話。
八幡は製鉄所が出来たことによって、人口も増え、まちは活気にあふれていた。
勢い活動写真館も増えていった。
最初にできたのは、現在の中央町にオープンした中央館。
それは、夢二の長男・虹之助が八幡尋常小学校に入学した年、1914(大正3)年7月のこと。
(福岡県の常設活動写真館第1号は1910〈明治43〉年、門司港にできた「電気館」)
(「電気館」はこちらの記事でも取り上げています)
当時の八幡の活動写真館はーー。
当時、テレビはもちろんなく、ラジオ放送が始まるのも1925(大正14)年のこと。
活動写真は一大メディアであり、人々の娯楽だった。
「不景気で入館者が減る」
とはいえ、全てが好調‥‥とは、いかなかったようだ。
1921(大正10)年の新聞「門司新報」には「八幡市の名物活動写真 その数十三館で何れも不景気で入館者が減る」という記事が出ている。
(「門司新報」はこちらの記事でも取り上げています)
八幡のこの記事を今の言葉で要約すると‥‥。
(原文は判読困難な文字があり、推測を交えています)
夢二も活動写真の字幕を意匠
こうした経過をたどり、1926(大正15)年10月時点で、八幡の活動写真館の数は、中央館や寿館など5館になっていたという(能間義弘著「図説 福岡県映画史発掘」)。
この大正15年10月を、夢二の年譜でみると、夢二はこの月、松竹の活動写真「お夏清十郎」の字幕意匠を担当し、アートタイトルを描いた‥‥と記述されている。
(夢二には大正前期に「お夏狂乱」と言う作品もある)
この「お夏清十郎」は八幡でも上映されたのだろうか。
そして虹之助ら竹久家の人たちも、どこかでこの映画を見たのだろうか。
枝光を歩きながら、そんなことを思った。