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北九州キネマ紀行【門司港編】石原裕次郎が北原三枝と栄町銀天街を歩く〜映画「錆びたナイフ」は、なぜ門司港で撮影されたのか


昭和30年代の門司・小倉が映る

映画「錆びたナイフ」で裕次郎と北原三枝が歩く門司港の栄町銀天街

昭和の大スター、石原裕次郎(1934〜1987、以下裕次郎)が門司港(福岡県北九州市門司区)の商店街・栄町銀天街を歩く。
それも、のちに夫人となる女優、北原三枝(石原まき子)と肩を並べながら‥‥。
それが、1958(昭和33)年に公開された日活の裕次郎主演映画びたナイフ」(舛田利雄監督)。

しかもこの映画、北九州ロケが行われ、門司駅や小倉も映る。
地元的には昭和30年代の映像記録としてもレア度は高い。

当時人気急上昇中のスター映画は、なぜ北九州で撮影されたのか‥‥。

映画入場者がピークの年に公開

映画が公開された昭和33年は、映画館の入場者数が延べ11億人を突破。
映画は大衆娯楽の王様として、人気のピークに達した。
(この年を境にその座をテレビに奪われていく)

映画は娯楽の王様だった

まちにはまだたくさんの映画館があり、大勢の人たちが足を運んだ。
映画館に行くのは楽しみだった。
裕次郎見たさの人も多かったことだろう。
「錆びたナイフ」公開前日の新聞広告を見ると

「爆発する裕次郎の魅力!」
「門司・小倉に大ロケーション敢行の唄と恋と鉄拳の裕次郎映画!」
「恋のなきがら胸に秘め失意に
|《むせ》ぶ旅路の男‥‥」

1958(昭和33)年3月10日・朝日新聞夕刊(西部本社版)全5段広告

などと大々的に宣伝している。

〝宇高市〟で裕次郎が悪に立ち向かう

裕次郎は1956(昭和31)年、兄の石原慎太郎(小説家で元東京都知事)の芥川賞受賞小説を映画化した「太陽の季節」で俳優デビュー。
「錆びたナイフ」公開時は、23歳。
戦後の新しい若者像として人気を呼び、主演映画が量産されていく。
何せ(当時)身長183センチ、股下90センチ(公称)というカッコ良さ。
歌手としてもヒットを飛ばした。
(「錆びたナイフ」も、映画公開前年の1957〈昭和32〉年にヒットした同名曲がモチーフになっている)

映画「錆びたナイフ」の舞台は、架空の新興都市・宇高市。
(映画には「宇高駅」が映るが、これは当時の門司駅〈門司港駅とは別〉を写している)

現在のJR門司駅。昔の駅舎は「錆びたナイフ」で見ることができる

暗い過去を持つバーの経営者(裕次郎)が、市議会議長殺人事件に絡んで命を狙われるが、果敢に悪と立ち向かう。彼に好意を寄せるラジオ局の記者(北原三枝)も協力し、やがて真相が明らかになっていく‥‥。

「いちばん大暴れした映画」

かつて日活アクション映画というジャンルがあり、「錆びたナイフ」もその一本。
やはり見せ場は、裕次郎の格闘シーン。
裕次郎は「錆びたナイフ」について、1958(昭和33)年に出した自著「わが青春物語」でこう解説している。

これも兄貴の脚本。
いままでのうちでいちばん大暴れした映画だ。
格闘シーンが全体の四割をしめ、テストの時間も入れて五十六時間という撮影、それを
(別の主演映画)「陽のあたる坂道」と平行に撮影したのだから、ほとんど昼夜兼行だった。
格闘シーンは全部夜間ロケで、夜の七時頃から翌朝の二時、三時まで。
そして九時には文字通り「陽のあたる」ほうへ出るわけだ。
大変な強行軍だった。

石原裕次郎著「わが青春物語」~「自画自談」

ほとんど寝ないで撮影した

格闘シーンの撮影場所は分からないが、北九州ロケについては舛田利雄監督へのインタビュー文献で触れられている箇所があるので、引用させていただく。

−−じゃあ(「錆びたナイフ」の)シナリオはすんなり。
舛田 それがね。ロケハンに行く時に、まだホンが出来てないんだから。呆れちゃうでしょう。ハコ書きしかない。それを頼りに北九州にロケハンに行ったんです。帰ってきてまた仕上げて。

(中略)

−−裕次郎さんの出演は本当に1週間だけだったんですか。
舛田 そりゃ無理だけど、北九州ロケまで行って、10日か11日ぐらいで、ほとんど寝ないで撮影して、『陽のあたる坂道』の
(監督)田坂具隆ともたかさんの方にお返ししました。

「映画監督 舛田利雄~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~」(著者:舛田利雄 / 佐藤利明/ 高護)

見物人が殺到し監督は人気を実感

「錆びたナイフ」の門司港・栄町銀天街でのロケの様子は、ネットで探すと、いくつか写真を確認できる。
それには裕次郎、北原三枝、そして舛田監督が写っているが、とにかく周囲は大変な人だかり。
銀天街の2階のひさし部分にまで見物人が集まっている。

佐藤利明氏の著書「石原裕次郎 昭和太陽伝」によると、北九州ロケはカメラを移動することが出来ないほど見物人が殺到し、舛田監督はここで裕次郎人気を実感したという。

なぜ門司港でロケが行われたのか

さて、では一体なぜ「錆びたナイフ」は北九州でロケが行われたのか。
いくつか資料にあたったが、はっきりとした理由は分からなかった。
ただ、想像できる材料はある。
門司港ロケが行われた時期が、その手掛かりになる。

映画の公開は1958(昭和33)年3月11日。
裕次郎と北原三枝が歩くシーンに映る栄町銀天街のアーケードは出来たばかりで、その3カ月ほど前、1957(昭和32)年の12月1日に落成式が行われている。
裕次郎と北原三枝はコートを着ているので、撮影は寒い時期。
つまり、撮影はこのアーケードが出来た頃だった。

映画の雰囲気が残る栄町銀天街のアーケード。JR門司港駅から歩いても近い

このアーケード商店街は、今はシャッターを閉めた店が目立つが、当時は〝大都市〟門司の一大商業拠点だった(近くに山城屋というデパートもあった)。
この商店街は今も昭和のたたずまいを残し、(これを書いている時点で)映画に映るアーケード天井も当時の雰囲気のまま。
わたしはここを歩くたびに「ここを裕次郎と北原三枝が歩いたのか〜」などと感慨に浸ってしまう。

門司港は〝イケイケムード〟に包まれていた

「錆びたナイフ」のロケは、アーケードの完成祝いだったわけでもないだろうが、当時の門司港は他にも大きなイベントが相次いでいた。

その一つは、本州と九州を結ぶ関門国道トンネル(海底トンネル)の開通。
開通式が華々しく行われたのが、「錆びたナイフ」公開2日前の1958(昭和33)年3月9日のこと。
新たな交通の大動脈誕生は、日本の産業界にとっても大きな出来事だった。

そして、このトンネル開通を祝して、世界貿易産業大博覧会「門司トンネル博」という大イベントが3月20日から5月25日まで、門司港の老松おいまつ公園などで開かれ、112万もの人が押し寄せた。

商店街のアーケード完成、関門国道トンネルの開通、トンネル博の開催‥‥。
「錆びたナイフ」の公開時、門司港は戦後最大の〝イケイケムード〟に包まれていた。

裕次郎人気にあやかろうとロケ誘致?

門司トンネル博は、大きなイベントだったから、当時の門司市役所も早くから準備を進めていた。

トンネル博が企画されたのは、トンネル開通の見通しが立つ前後の昭和27年ごろのこと。
昭和29年には事務局が発足している。

(昭和)32年には各部職員の発令があり、出品部は全国に出品勧誘、施設部は博覧会業者の選定とレイアウトの完成を急いだ。
宣伝部は、テレビ・新聞・ラジオをはじめポスター・チラシ・移動宣伝等の立案と実施をした。

門司市役所発行「門司市史 第2集」

この時、宣伝部は裕次郎人気にあやかろうと、東京にも足を延ばし、日活に門司港ロケを持ちかけたのではないか‥‥。

日活側も、この時期に裕次郎の〝門司港ロケ映画〟を封切れば、それなりのヒットが見込めると算盤そろばんを弾いたのではないか‥‥。

映画「錆びたナイフ」は、そんな想像を膨らませながら見るのも面白い。

モノクロ映画は昭和を感じさせてくれる

おまけ:まだある裕次郎の〝門司港〟映画

裕次郎が門司港と関わった主演映画は、もう1本ある。
それが「錆びたナイフ」の前年(1957年)に公開された「わしたか」(井上梅次監督)。

航行する貨物船を舞台にした海洋アクション映画で、裕次郎はある秘密を持った船員役。
浅丘ルリ子や三國連太郎らが出演し、この映画でも裕次郎のカッコ良さは際立っている。
貨物船はラストのあたりで、門司の海に入り、裕次郎は門司の陸地に上がろうとする。

裕次郎の著書「わが青春物語」によると、ロケは実際に貨物船をチャーターし、芝浦から門司まで行ったという。
裕次郎は「ほとんどシケつづきの海だったが、あんなに愉快なロケはなかった」と書いている。

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