2021/12/27

今年書いた記事をマガジンに分けてみた。

・多少なりとも情緒がある

・完全にふざけている

・下ネタ(ちんぽ等)

の3つにカテゴリーを分けたので、年末年始の暇な時に是非読んでみてください。

これは大正コソコソ噂話なのだが、noteへのアクセスを調べてみると、・多少なりとも情緒があるのカテゴリーへのアクセスはnote内からのアクセス比率が多い。しかし、・下ネタ(ちんぽ等)へのアクセスは圧倒的にTwitterからの流入が多い。Twitterの人は下ネタが大好き、反して下ネタのみの記事にはnoteからの流入が少なくスキも少ないので、noteの人は下ネタが苦手で情緒的な文章を好んでいることが分かる。

以上、大正コソコソ噂話でした。


マガジンを作るにあたって自分の過去記事をさらっと読み直してみたのだがまぁ暗い。悲壮感に溢れているとか愚痴が多いとかではないのだが、他人の目を気にして真面目に生きようとしている記事が多くて、読み返しながら「俺、めちゃくちゃ自意識過剰だな」と思ってしまった。俺は河原でバーベキューしている奴が書くような文章を志しているので、このような自意識過剰具合は取り除いていかなければならない。

これは俺のような若い奴には特に言っておきたいのですけれど、人生は開放的になった人間の方が強いし、楽しいです。開放的になるというのは何かと言うと市井の中で活き活きと生きるということだ。書物の中で哲学に生きるとかただ過ぎていく人生を眺めるだけの人生の引きこもりになるという生き方とは真反対の生き方、要は友達と遊んだりお酒を飲んで気持ちよくなってみるという人との関わりの中で生きるやり方で生きる方が絶対楽しいですよ、って話だ。


もちろん読書の楽しみも人生を引きこもっている人の魅力も当然ある。開放的になると言っても、それは完全な主観で方法などは各人の価値観や思想に左右される。そこで正しい価値観を持ってないと非合法な手段で自分を開放することになってしまう場合もある。知識や哲学はここで役立つ。知識とはその人が生きるための補完なのだ。人生の目的でも全てでもない。引きこもりな人にも独特な魅力があり、それも一人の人間が到達した世界なのならばそれは尊重すべきことだ。

しかし俺と同じく若い奴で自意識過剰故に人との関わり合いを意識的に避け、自分の人生にひきこもってばかりの人は開放的な生き方というのも一度試してほしい。

大学時代、唐突にピアス穴を開けたり髪を染めたりという人がいたと思うがそれも開放的になるということだ。イメチェン、つまり自己イメージの改革を以てその人はなにかを変えようとしたのだ。おそらくこんなインターネットの辺境で俺の日記を読んでる人たちは俺と同じく、きっとこういう人たちを下から眺めたり上から見下ろしていたりしていただろう。しかし、大学時代終わってみればどうだっただろうか?真に人生を楽しんでいたのはイメチェンを果たした類の人間であって、俺らは教室の隅でスマホを触ってナイモンを見るだけの生活。同年代が友達と海に山に行っている間に、俺たちは年上のゲイに遊ばれて「同年代と遊ぶより年上の人と一緒にいる方が楽だし。」とか思いながら現役大学生という人生を引きこもってばかりいたのではないだろうか?

J.S.ミルは「満足した豚であるより、不満足なソクラテスである方が良い」と言った。ほんとだろうか?自分の人生に満足し酒を飲みクラブで全身に音を感じながら踊る豚をだれが不幸と言えようか。書物に囲まれ延々と自意識に苛まれながら学問をする俺たちソクラテスは、幸福な豚からはどう見えるだろうか?

寺山修司は言った。「書を捨てよ、街へ出よう」と。学問や読書、哲学も大事なことだがそれは街の中、人との関わり合いの中で活かすのが本来だ、と寺山修司は言っている。

書物に囲まれ、自意識に苛まれ自分の人生をただ過ぎるものとして捉えるのは良くない。自分を他人の中に晒して暮らそう。そうする方が楽しいし、より人間らしいんですよね。俺たちが目指すべきはクラブで踊るソクラテスです。1年を振り返ってそんなことを思いました。来年も頑張っていきましょう。よろしくお願いします。

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