2021/10/18

昔から好きな歌があってそれがアジカンの『ソラニン』って歌だ。この歌のなにが良いってまずは歌詞が良くて、サビに「たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする きっと悪い種が芽が出して もうさよならなんだ」って歌詞があるのだが、この現代風刺的な世界観がたまらない。作詞はあのサブカル男子女子のバイブルを多く生み出している浅野いにおなのだが、この歌詞は10代20代が人生のどこかで必ず感じるであろう漠然とした不安感を端的に表している。

大抵の人間は現状の生活に大きな不満もなく生活しているのが今の世の中だと勝手に思っている。偶に美味しいものを食べて、週末は友達とお酒を飲んで、少し先の予定には旅行の予定だってある。唐突に電話をかけても応えてくれる友達もいて、会おうと思えばいつでも友達と会える。やるべき事は沢山あってやりたい事はぼんやりといくつかある。しかし総じて見ると幸せで満ち足りている、言わば中流階級的な人生を享受しているにも関わらず、人はどこか足りないと思ってしまうものだ。生活は充実しているのになにか足りない。心が渇いていく感覚を覚える人は意外と多いのではないのだろうか。

マッチングアプリで会った人とは別に何か嫌なことがあったわけでもないけど疎遠になる、いつもと同じようなSEXをしてみても世界の色はなにも変わらない、ぼやけた記憶だけが残る無機質な日々を送りながらも、生活に何も不自由はない。これが『ソラニン』でいう「だらっとした幸せ」のことだと思う。『ソラニン』のいう「だらっとした幸せ」は本来、恋人間の刺激のない毎日のことだと思うのだが、恋愛以外の面のおいても「だらっとした幸せ」は存在する。
歌詞は続いて、だらっとした幸せを続ける二人にはやがて悪い芽が出てきてさよならが訪れる。恋人間におけるさよならはそのまま別れのことであるが、では恋愛以外の面における「だらっとした幸せ」が存在していてやがてそれが原因で悪い芽が出たとして「さよなら」はなにになるか。

それは感情の鈍化であると思う。
なんとなく満ち足りていながらも無機質でだらっとした日々は、感情の解像度を下げていく。特筆することのない毎日は人から経験と思考と教訓を奪っていく。今日も何もなかったななんてのは聞こえはいいが、将来にその日を振り返ることは絶対にない。何も思うことがない日々が続くと人はどんどん感情が鈍っていく。
そして感情が鈍っていくと何も分からなくなるのだ。自分が今幸せなのか不幸なのか、強いのか弱いのか、未来があるのかないのか、モテそうなのかモテなさそうなのか、静かなのかうるさいのか、優しいのか怒りっぽいのか、何がどうなっているのか分からなくなってくるのが感情の鈍化が引き起こす作用だ。だからこそ本当は充実している毎日の中でもどこか物足りなさ、漠然とした不安を感じてしまうのだ。

なので、何もない日常の中でも感じることや考えることはやめないほうがいい。これは別に常に考え続けろって話ではなくて、今日はいつもと違った道を歩いてみようとかこの前会ったあの人は今何をしているのかを想ってみるとかそんなんでいいのだ。ちょっと暇なときに自分や他人に思いを馳せてみるだけで感情の鮮明度はぐっと上がる。俺が時々日記を書くのもそういう目的もある。今日は感覚的な話を特に整理もせず書き連ねているだけだが、こんな文章でも俺の為になってるんだから捨てたもんじゃない。

※感覚の解像度は高いほうが良いなんて書き方をしたが、高すぎてもてもそれはそれで他者と感覚の共有が出来なくてどんどん孤独になっていくので注意だ。恋愛だとそれはより顕著で、一人だけ恋愛に前のめりでいろんな愛を見つけても、相手がそれを共感できないとほんとにただの重い愛に成り下がる。何事も程度ってもんがあるって話です。

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