2021/10/07

つい先日、Twitterにて動画を投稿した。
髪を切った事をアピールしつつ、文語体のナレーションをいれてなんかとりあえずユーモアを挟んでおいた。

髪を切った報告というのはゲイが自らの顔をTwitterに上げることができる数少ない大義名分の一つであり、これを利用する者は多い。俺もその文化を倣い、今回の動画を撮ったわけだが、自分の顔面を曝す行為、言わば自撮り行為を行うときに必ずと言っていいほど俺の中にいるもう一人の俺が勢いよく席を立ち声を上げる。

「あなたは自分のことをカッコいいと思っているのですか?!」

このように自らの顔面を他者に曝し誰かに見てもらいたいと思う時、その肥大した自己承認欲求を咎める一派が自分の中で必ず現れる。
インターネットに自分の顔面を曝すほど、あなたは自分の事をカッコいいと思っているのか?
これはこのSNS社会においての命題であり、避けて通ることは出来ない問題である。

この疑問が現れるたびに、俺は「いや、俺はカッコよくないです。だって屯田兵みたいな顔してるし...」という答えを以って目線を右下の方にずらし承認欲求反対派の意見をやり過ごしてきた。
しかし、今思うとこれは批判を躱すことに注力するあまり本来の疑問を有耶無耶にしていると思わないでもない。「俺はカッコいいのか?」という問いに対して「だって屯田兵みたいな顔してるし...」と注釈を付けくわえ無意識のうちに「だって顔が...」と言い訳しているのだ。じゃあ顔さえまともなら俺はカッコいいのか?本来ならば相手の顔を見据え、「いいえ、俺はカッコよくありません。俺はカッコいいの対極に位置する存在です。」と言えばいい。カッコいいと思っていなければ髪を切った後の様子など映さなければいい。顔がもう少し小さく、目は大きく、瞼には目元をきりっとさせるアーチが刻まれていれば、俺は自分のことをカッコいいと言うのか?自分がカッコいいことに確信を持ち、カッコいいを辞書で引けばそれは俺かローランドの事である、と言えるのか?

俺は自分をカッコいいと思っていないが、自撮りはする。ここに自己欺瞞がある。これを解決するのは相当厄介なことではあるのだが、もう嘘はつけない。俺は確かに朝、顔を洗ってふと顔をあげるとき、街のウィンドウにちらっと自分の姿が映った時、あれ?俺って今ちょっとカッコよくないか?と思うことがあるのだ。外見という人の好みが存在し議論の余地を持たせる事象が少しぼやけたとき、俺は俺のカッコよさをふわりと香る春の匂いのように感じることがあるのだ。
俺は忘れた頃にやってくるこの春の匂いが忘れられない。この春の匂いが俺の脳にこびりついた結果が自撮りというものに結び付かせる。無意識の世界の中で、俺は俺なりの「カッコいい俺」というイメージを維持しており、俺がカッコいいことは無意識の俺だけが知っている。

「あなたは自分のことをカッコいいと思っているのですか?!」
この問いへの答えは「それは俺だけが知っている」。これ以上でも以下でもないのだ。

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