橋本浩太(24)の場合

#いいねした人の小説を書く
(@hashinewhashi)編

しばらく前に買っていた『本格!おうちレシピ!』なるレシピ本をめくりながら、こんな凝った料理をうちの人間に出してもあまり意味ないのでは?と橋本晴恵はほおをつきながら思った。

「牡蠣のグラタン」まずもって牡蠣が我が家の食卓に並んだことなど25年近い歴史の中でも数えるほどしかない。しかも牡蠣を下拵えして更にホワイトソース?工程の多さに主婦舐めんじゃないわよ、と悪態をつきたくなる。

「オマール海老のココナッツカレー」著者は日本のスーパーで買い物したことがあるのだろうか。愛用している近所の業務用スーパーにはオマール海老もココナッツも置いているのを見てことがない。あ、でもココナッツはあるか。あのパックみたいな。けど、未知の食材は億劫だな。ミキサー出すのすら億劫なんだから、日常の食卓にココナッツという未知を取り入れるのは勘弁願いたいわ。

晴恵はこういった家庭の日常の中で過ぎる時間の感覚と実際の時間の流れの感覚の差異をなんだか味わい深く感じることがある。
夫の英春との結婚が26年前で一人息子の浩太が産まれたのは24年前。浩太が産まれた時のことはついこの前のように思い出すことが出来る。

夫の英良は、仕事で溜まった鬱憤を酒の酔いに任せてぶつぶつと呟いたかと思っていたら、NHKの報道番組をBGMにしながらいつの間にかソファで半ケツを出しながら寝る男である。
そんな様子も昔からの事であるから、特に心配はしていない。ただ気絶したように寝るのは健康的にどうなのだろうか、と思う次第ではある。

息子の浩太は自活できるタイプでしっかりしているから手がかからない。つい先日までは一人暮らしをしていたのだが、仕事場が実家の近くに移動になったので先月の終わりから数年ぶりに我が家の子ども部屋に収まっている。
息子の浩太は自活できるタイプではあるのだが、女性の影が昔から全く見えないのが不思議なもので、本人も全くその素振りを見せない。夫の英良などは時々「彼女はいるのか?」となんとも嫌らしい父親業をしているようだが、本人は自分の話とも思わず知らぬ存ぜぬである。

母親である晴恵からすれば息子の浩太が考えている事はなんとなくではあるが、分かる気がしている。浩太はきっと女の子に興味がないのだ。
可愛い顔に産んであげたのだから少しくらいは女の子にモテるとは思うのだが、興味がないのならしょうがない。浩太の中にも日常があり、女の子はきっと私から見たココナッツなのだろう、と晴恵は思って特に息子の恋愛のあれこれに干渉する気はない。

今日の晩御飯はいつもの一般的なカレー、じゃがいも、玉ねぎ、ニンジン、豚肉の一般的なカレーである。
「ただいま。カレーの匂いがするな。今日はカレーですか?」
夫の英良が帰宅するなりなんだか当たり前の事を言い出したので、「そうよ〜」といつもの通りに返す。
英良はそのままいつもの流れでスーツを脱ぎ、寝室のクローゼットへそれを仕舞いに行き、すぐにシャワーを浴びる。彼のこの行動はルーティンのようなもので、10分そこらで頭を乱暴にバスタオルでがしがしと掻きながら、ステテコと白のランニングシャツといったなんとも威厳のない姿で登場するまでが一通りだ。

息子の浩太も晩御飯の気配を察知し、とつとつと2回の自室から降りてくる。呼ばなくても降りてくるのが浩太の良いところである。階下から大声を出すのは疲れるからだ。

こうして橋本家の全員が食卓に集い、いつもの通り母・晴恵の「いただきます」を合図に食事が始まる。

なんて事のない日常だ。波も滅多に立たない凪のような人生。電撃も走らない。突如我が家に落雷が落ち、それが夫の英良に直撃。余分な肉をこそげ落とし、内野聖陽になったりはしない。しかしこれでいい。橋本家はこれでいいのだ。今後も食卓に牡蠣やらオマール海老が出ることはないのだろう。

「浩太、お前彼女とかいないのか。」
突然、夫の英良がそんな事を言い始めた。また始まった、と晴恵と浩太は特に気に留めていなかったのだが、今日の英良はなんだか少し違った。

「お嫁さんを迎えるってのが古い考えってのは分かってるんだがな。浩太はもうちょっと女の子と関わった方がいいんじゃないか?プリクラとか見たことないぞ。俺にお前のプリクラを見せてくれ。オタマジャクシがカエルになるのは知ってるな?それと一緒だよ。そろそろカエルになる素振りくらいは見せてもいいんじゃないか?」

「カエルと人間は違うよ。」と浩太。

「正論を言うなよ。正論で世の中が回ると思うなよ。浩太はいつも正しいよ。立派な息子だ。間違った事など見た事ない。しかし偶には逸脱してもいいんじゃないか?女の子と逸脱してもいいんじゃないか?とりあえずその長過ぎる爪は切った方がいいんじゃないか?」

「親はあんまりそういうこと言わないと思うよ。」

「ああ、そうだな。だが俺も母さんももう50を過ぎた。人間50年って知ってるか?人生ってどうせ一瞬なんだから今を精一杯生きろってことだ。昔は大体50歳が寿命だった事も起因してるな。だとしたら俺らはもう既に一回死んでるんだ。じゃあこれから新たに生まれ変わりましたって訳だが、折角生まれ変わったんだ。なにか欲しいわけだ。こう日常を壊す何かが。とりあえずはその長い爪を切ったらどうだ?」

「誕生日プレゼントはもうあげただろ。」

「ああ、もらったさ。凄い良かった。俺には地ビール、母さんには高いハンドクリーム。満点だ。満点だよ、浩太。しかし違うんだよ。地ビールじゃ日常は壊せない。日常は硬いんだ。ガチガチに硬まっている。俺はそんな日々を少しでも動かしたいと思ってるんだ。」

「それは父さん自身がやったらいいじゃないか。」

「なんだと?」

「え?」

「なんだと、と言いました。もういっぺん言ってみろ」

「ねぇ、海へ行かない?」突如、晴恵が父子の会話に口を挟んだ。

「海?」

「そう。海に行くの。糸島や門司港のあたりがいいかも。太平洋側もいいわね。いっそのこと、湘南や九十九里なんかもいいかもしれないわ。海が見える街で暮らすの。休日はパンなんか焼いちゃって。朝からしっかり炭水化物を摂って、昼は抜いて、夜は軽く済ますの。良くない?犬も飼いたいわね。大きいやつ。ゴールデンレトリバーとか良いんじゃないかしら。ねぇ、そうしましょ。2人で海の見える街で暮らしましょうよ。きっと楽しいわよ。」

「え?2人?」

「そう。あなたと私。2人よ。浩太は心配ないわ。しっかりしてるから死にはしないわよ。偶に手紙を書きましょう。海の写真を添えてね。日常を壊しましょうよ。海の近くに住めば、こんな普通のカレーじゃなくてあなたにオマール海老とかココナッツのカレーを食べさせてあげれるわ。それにほんとは作ってみたかったのよね、凝ったカレー。お米に色をつけてサフランライスにもしてしまいそうだわ。」

「おい、晴恵。どうしたんだ?急に?」

「どうもしてないわ。どうかしてるのはあなたの方よ。いつも初期アバターみたいな格好で半ケツ出して寝てる癖に急に父親ぶるんだから。そんなに日常を壊したいなら私と壊しましょうよ。パン作り、手伝ってよね。」

そうして橋本夫妻は海へ旅立つことにした。

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