2021.04.08

時々、自分の文章を見直すことがあるのだがあとから見直すと酷い出来だと毎度思っている。誤字もあるし一人称も統一できていない、口語体や文語体も入り混じっている。なにより、文章が暗いしなんだか説教臭い。人間性が文章に表れるとはよく言ったもので、私の文章は私の性根がそのまま滲み出ている。本当は河原でバーベキューやってる人間が書くような文章が書きたい。河原で大音量の音楽を流しながら仲間とバーベキューやっている奴が書くような文章を書いていけば、私自身もそのような性格になれるのだろうか。とりあえず今年の夏は河原で仲間とバーベキューをやりながら文章を書いてみようと思う。自分ならそんなやつバーベキューに誘わないが。

自分の顔が可愛いと言われるということはゲイの社会では決して珍しいことではなく、なんらかのSNSに手を付けていれば自分の顔を褒められる機会はそれなりにあるのだと思う。反して通常のノンケの関係性の中で生きていればめちゃくちゃイケメンでもない限り、自分の顔の可愛さを判断されることはそうはない。なので男性とは自分の顔の可愛さを特に意識することがないのが一般的とされる。しかしゲイ社会は、前述したように顔を褒められる機会がそれなりある故に自分の顔を意識する人間は多い。それまで意識していなかった人間も一度褒められれば「自分の顔って可愛いのかな...?」「そんなことないだろ」「けどあの人は可愛いと言ってくれたしな」と思い始めてしまい遂には「まぁ結構可愛いのかもな、俺って」と着地してしまえば一種の自己愛、ナルシシズムが生まれる。それまで剃っていなかった眉毛なんかも整えだして、(まぁモナ・リザの絵も額縁が汚かったら台無しだしな)などと自分とモナ・リザをイコールで結び始める。
これに対して否定的な意見もあるが、このような考えに着地するのはそれこそ一般的だと私は思っている。人に言及されればそこを気にするのは当然のことで、銭湯で乳首は何気なく晒せるのにちんぽこを晒すのに抵抗感があるのと一緒の話なのだ。注目されればそこに価値が発生する、そしてその価値を自分の価値と結びつける。これは人間の至極真っ当な思考の流れであると思うのだ。
なんでこんなことを急に書いたかと言うと、Twitterで「自分のことを可愛いと思ってない人と付き合いたい」という文言を見つけそんなのは初狩りと一緒だろと思ったからである。自分の価値に気づいていない人間ってのはほんとに貴重だが、そんなものは霞や幻と一緒ですぐに消え去るものなのだと思っている。

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