けいべつ

けいべつ、という言葉は自分の気持ちにぴったりだ、と夏夜は思った。

夏夜はいろんな人をけいべつした。

軽蔑。
授業で漢字は習ったがすぐ忘れてしまった。
けいべつ、という言葉の響きが良かった。
人を馬鹿にしている言葉。


夜遅くまで遊んでいて怒られた時は母親を
耳が痛いくらい大音量でゲームをしている弟を
遊んでいて掃除をサボっている同級生の男子を
電車の中で触ろうとしてくる痴漢を
街の中で大声で叫んでいる変な人を

あらゆる人を夏夜はけいべつした。

けいべつ、と心の中で思うだけで、気持ちがスッとした。
私とあの人たちとは違う人間なのだ、と思った。関係ない。関係ない。関係ない。


道幅いっぱいに広がって歩いている小学生たちを
酔っ払って大声で騒いでいるおじさんたちを
毎週月曜日、スカートの丈を1ミリ単位で測ってくる生活指導の教師を


見えない刃物を振り下ろすように、夏夜はけいべつした。

誰かをけいべつする時の心は冷たかった。

もし心臓を取り出して自分の手のひらに乗せることができたら、氷よりも冷たいはずだと夏夜は想像した。


喧嘩をして言い争っている両親を
髪を染めて校則以外のカバンで通学し、毎回教師に怒られているのに全然反省しない同級生を

夏夜は毎日けいべつし続けた。


けいべつするということと、殺し方を考えている、ということは夏夜には同じに思えた。

「ねぇ、シャーペンの替え芯持ってる?」

ふわ、とシャンプーの香りが匂った。

顔を上げると、ほとんどしゃべったことのない明るい金髪のクラスメートが話しかけてきた。

一瞬面食らったが、筆箱の中をかちゃかちゃさせながら「…あーごめん、持ってないや」

そう言うと、彼女は「そっか!」とニカッと笑い、違うグループの方へ駆けて行った。

なんで私に話しかけたんだろう。
なんて名前だったっけ。

なんでシャーペンの替え芯持ってないんだよ。
どうせ誰かに毎日貰えばいいと思ってんだろ。

私は彼女をけいべつした。

その日の夜ごはんの時、父親がおもむろに
「選挙に出馬しようと思っている」
と言った。

母親は隣でうつむいている。
笑いたいような、泣きたいような、どっちとも言えない顔で。


「いろいろ考えて、今のままじゃダメだと思って会社を辞めた。しばらく考える時間が欲しいが、選挙に出馬しようと思っている」


は?会社を?辞めた?
辞める、じゃなくて、辞めた?過去形?

確かに最近、土日でもないのに父親が家にいることが多くなったな、と感じていた。
お母さんに聞くと「おうちでお仕事してるのよ」と言われ、それを鵜呑みにしていた。
まさか会社を辞めていたとは。

そんなことより、えーと、来年私は高校受験だよね、公立と私立の併願するつもりだけど、もし私立になったら学費は公立の倍だ。

お金はあるの?貯金は?退職金は?
面接で、親は無職で選挙に出馬するために会社を辞めたんです、って言うの?
そんなことが頭をぐるぐる回る。


父親は「みんなにも協力してもらえるとありがたい」
と続けて、私と弟の顔を見た。


小学生の弟は「センキョ?おとーさん総理大臣になるの?」などとのんきなことを言っている。

「いや、総理大臣はまだだ。」

まだ?

そもそも父親はどんな会社に勤めてて、どんな仕事をしていたっけ?
まったく思い出せない。あ、待てよ。

小学校6年生の時、授業で作文を書かなくてはいけなくて、父親に仕事の話を聞いたことがある。
車の部品を作る会社のカチョウだかカチョウホサだかカチョウダイリだか…だった気がする、確か。
2年前の話だけど。

手に箸を握ったまま、父親の顔をぼうっと見た。
目の前のハンバーグの湯気が目に滲む。

ハンバーグ、お父さん好きだもんな。
弟も好きだし。私も好きだけど。


父親はさらに続けた。
「引っ越すことになるかもしれない」
「この家を売ってアパートに引っ越して、選挙資金を」
「まずは地盤から」
「来月から駅前に立って街頭演説を」

のところで、ふと我に帰った。

駅前?街頭演説?

「駅前って、高倉駅?」
「そうだ」

それは自宅から最寄りの、夏夜が毎日通学に使っている駅だ。
絶対に嫌だ。同級生に見られたら恥ずかしくて死んでしまう。その日を境にいじめられるかもしれない。それだけは嫌だ。クラスの中で、適度に目立たないポジションを必死に維持しているというのに。
この人はそういう私たちへの影響を考えているのだろうか?


衝撃すぎて黙り込む夏夜の前で、父親はさらに続けた。

「お前たちも一緒に活動してくれると助かる」


は?

たまに見る選挙特番で、当選者が万歳三唱している後ろで、ペコペコ頭を下げ続ける家族の姿が一瞬頭をよぎった。

あれになるの?あたし達。いやまだ当選するとは限らない。そもそも駅前でビラ配りなんて絶対に嫌。

父親はさらに何か喋っていたが、何も頭に入って来なかった。
目の前の誰も手をつけていないハンバーグを睨みつける。

うるさいうるさいうるさい。
お前なんかあてにしてないんだよ。


みんな黙れ黙れ黙れ。みんな出て行け。私に関わるな。みんな馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。

目の前の、湯気の立っている味噌汁、サラダ、お茶碗、これ全部ひっくり返したらお父さんびっくりするかな。
怒ってるって思って、やめてくれるかな。

私は頭の中で想像する。怒り狂っている自分を。
でも私はそれを行動に移さない。

「私は絶対に嫌だから」

すっと立ち上がり、2階の自分の部屋へ階段をのぼっていく。

階下では弟が「いーじゃん!僕やる!センキョ!」と騒いでいる。

アホか?呆れを通り越して能天気な弟が羨ましいとさえ感じる。


夜、お母さんが私の部屋をノックした。
黙っていると、ドアの向こうからお母さんの小さな声が聞こえてきた。

「起きてる?」
無言の私。
「…びっくりしたでしょう、今日」
無言。

お母さんはいつから知ってたんだろう。

「急に言われて驚いたと思うけど、お父さん数年前から悩んでてね」

無言。

「お母さんも最初に聞いた時は驚いたけど、何度も話し合って、お父さんのやりたいことなら応援してあげたいって思うようになったの」


何それ。何だそれ。
じゃあお母さんだけ応援してあげればいいじゃん。私は嫌。絶対に嫌。これ以上恥ずかしい思いはしたくない。


無言の私の部屋のドアの前から、母親の足音が去っていく。


翌朝。
今日はいつもに増して気が乗らない。
重い足を引きずりながらなんとか登校する。

自分の教室に着き、自分の机に誰も腰掛けていないことにホッとする。毎朝確認しないと不安定でたまらなくなる。

誰かが勝手に座っていたり、自分の席の周りで数人が盛り上がっていたりすると、始業時間までどこかで時間をつぶさなくてはならなくなる。
自分の席なのに、カバンも置けずさまよう。
おかしな話だ。しかし、これも学校生活を生き抜いて行くために必要なことだった。
場の空気を読むこと。読みすぎないこと。


2時間目の終わり頃、手にしたシャープペンシルの手応えが無いことに気づく。

カチカチカチカチ
芯が、出ない。

うそ、まさか、

カチカチカチカチカチカチ

お願い、出て

カチカチカチカチカチカチカチカチ

替え芯、昨日使い終わっちゃったんだ…
この後テストが3教科も残っている。
どうしよう。
先生に言って鉛筆を借りるしかない…
でももう休み時間は残り僅かだ。
職員室に行っている時間はない…

シャープペンシルを握ったままの手が、だんだん冷えていくのを感じた。


「はい、これ使って」
えっ
「シャー芯、ないんでしょ?」
顔を上げると、ふわふわの金髪の彼女と目があった。

ぱっちりした目。
ビューラーでちゃんとまつ毛が上がっている、ぱっちりとした目。


「さっき授業で習ったじゃん。人類皆兄弟、助け合えるのはニンゲンの知能が高い証拠だ、って」

ちゃんと授業、聞いてるんだ…とぼんやり思った。

「まーあたし的には、人類皆姉妹、って言って欲しいけどね。女の子もいるわけなんだし」

えっでもあれってなんの授業だっけ?コーミン?ゲンコク?コテンだったっけ?

と大声で楽しそうに話す彼女の顔を、ぼんやり見る。


「…ありがとう」


その日は何も手に付かなかった。
テストにちゃんと回答できたのかすら覚えていない。

次の日。
新しく買ったシャープペンシルの芯を、パッケージごと彼女に差し出す。

窓際の席でいつも数人と大きな声で喋っている彼女が、一人になった瞬間を見計らって。


「これ…ありがとう。シャー芯。昨日」


「あー!いちいち返さなくてもいいのに!」
「しかもこれ丸々じゃん!一本でいいよ一本で!ほら!」

と彼女はシャー芯のパッケージを破って中身を取り出し、一本だけ抜いてあとは私に突っ返してきた。

その時また ふわ、とシャンプーが香った。
その途端、なぜか目の前の景色が滲んだ。


「えっ何?も〜シャー芯ぐらいで泣かないでよ〜!あたしが泣かしてるみたいじゃん?やだ〜」と言いながら私の背中をバンバンたたく。

私も誰かからけいべつされていたんだろうか。
自分がやってきたように、けいべつされ、見えない刃物で何度も刺されていたのかもしれない。
シャープペンシルの芯が、ナイフだったら。


明日からいよいよ駅前で演説だ!と張り切っていた父親を思い出した。


なんの屈託もなく笑う彼女が、涙で滲んでいった。

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