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母と娘のチャック全開物語

生きていて「知らなかったぜ、誰か教えてくれよ」ということは、
ままある。
そんなとき、私は「ああ、またチャック全開で歩いてたわ」と思う。

チャック全開に気づいて恥ずかしいだけならそっと閉めて、テヘヘである。
しかし、他人の開いたチャックで不快になったり怒ったり、傷ついたりする人もいる。
そんな事故はいくつになっても起こりうる。

そんな時、黙ってそっと閉じるか、「うるせー!わしゃ開けたまま歩くんだよ!」とキレて開き直るかは、その時履いているパンツによるかもしれない。


数年前、60代の母との会話中、彼女が「男根の世代が~」と言った時、一瞬時が止まった。止まった針が動きだし、バグった脳が高速処理をして、「団塊の世代」と言いたかったんだと気づいた頃には、時すでにお寿司。

「団塊」「闘魂」「団塊」「闘魂」「団塊」「闘魂」脳内でカタカタと寿司が回転し、「ああ、たしかに漢字似てるぅ~!!」と理解した時には、機を逸したわけだ。

下ネタや下品な話が得意ではない母に、さらりと訂正してあげるタイミングを完全に失った。私の聞き間違いでなければ、彼女は今もダンコンとともにチャック全開で生きている。

彼女は、色々な言葉を間違って覚えていたり、思いもよらぬ勘違いをしていることがある。

それまでにも、「ん?」と思うことがあれば、いい感じに伝えるようにしていた。
その度に「お母さんてほーんと何も知らなくて嫌になっちゃう!」とか、「バカでしょー?」とか、「本当に世間知らずで恥ずかしい!!」とか言いながら少し悲しそうに笑っていた。

「あんまり若い時に結婚しちゃったもんだから」と「田舎で育ったから」も母からよく出るフレーズだ。
昔から、地方出身者であること、そして、高卒という学歴のコンプレックスでガチガチにこわばった彼女の自意識を、娘である私はギンギンに感じて生きてきた。

おかげさまで、兄は中学から私立でエリートコースだったし、私は高校まで公立ではあるが、ずっと塾に通っていたし、高校時代は無理して予備校にも通わせてもらった。私もそれなりに勉強したので、素敵な大学で学ぶことができた。

アラフォーにして、いまだ完済せぬ奨学金を抱えているが、そのおかげで【団塊】をダンコンではなくダンカイと読むことができるようになったのだろうか。

男根とガチガチとギンギンを近くに置くのはあまりにうかつだったが、(マジで無意識!意識してしまった以上書かずにいられない!!)

とにもかくにも瞬時に彼女のそんなアレコレが頭をよぎり、私の判断を鈍らせた。やはり、他人のチャック全開は、躊躇なく、瞬時に明るく軽やかに伝えるのが一番である。

母は、とてもかわいいひとだ。
それなのに私は、極端に彼女を「かわいそう」と思ってしまうきらいがある。
私と母の物語はすべてこの「かわいそう」が駆動している。
傷つけたくない、これ以上「かわいそう」にさせたくないという気持ちだ。

母が生きている間に、訂正する必要がある。
実は、母はずっと「かわいそうなひと」ではなく「かわいいひと」だったのだ。それなのに、気づけば私が勝手に「かわいそう」に変えてしまった。

そのことに気づいたのはほんの少し前である。
一生懸命で不器用で、ちょっとズレた、かわいいひとだ。

『訂正する力』が、母娘の物語を書き換えるヒントをくれた。
あずまん先生ありがとう!!

そんなわけで、今も定期的に「母親が残りの人生で、団塊の世代、あるいは団塊ジュニアについて熱く議論する機会がただの一度もありませんように!!」と力強く祈っている。
もちろん、このことは誰も知らない。

母には、開いたチャックを誰にも気づかれぬまま生きてほしい。
あるいは、誰かに指摘されたら、開き直って豪快に笑い飛ばしてほしい。
そして、必死に自分に言い聞かせなくてもいい程度に、普通に「しあわせ」に生きてほしいと願う。

ちなみに、私もその類の、訳のわからん間違いシリーズを日々量産しており、最近まで「胡散臭い」を「ゴマ臭い」と脳内で読んでいた。
もちろん、「うさんくさい」という言葉は超知ってる!超使ってる!!
なのに、なぜか「胡散臭い」という漢字とつながっておらず、子供のころから脳内で「ゴマ臭い」と読んでいた。マジ意味わからん。
幸いにも、人前で音読する機会がないまま生きてきたので、多分誰にもばれていない。
「うさんくさい」「きなくさい」に並ぶ「ごまくさい」という第三の「くさい」が、割と最近まで、私の中に存在していたのである。用法は不明。
完全にチャック全開である。

匿名とは言え、母の恥ずかしい話を(しかも、単に私の聞き間違いでオール濡れ衣かもしれない!!)文章にしてしまったので、自分からパンツ見せにいくスタイルでせめてもの懺悔だ。ゴマくさーー!!


早くも盛大に話が散らかったが、本題。

ここからが、私のチャック全開物語だ。
(チャック全開くん。おしゃれ手帖、好きだったなあ)

私は、女性が「子供を持ちたくない、母親になりたくない」ということを公の場で表明することが、他人に大きな衝撃を与え、忌避されるということ、あるいは嫌悪や非難を呼び起こすものだ、ということを全く知らずに生きてきた。
子供のころからチャック全開のまま、「私はこんなに恐ろしい世界で、大切な宝物の【子供】を産み育てたくはないなあ」と思って生きてきた。

この世界に生きる人々、を産んだすべての「母」たちは、世界を、自然を、他人を、何より自分自身を信用しているんだなあと思っていた。

一番古い記憶では、中学2年生のころ、初めて自分の親以外にそのことを話した。
仲良しの女の子と、彼女のお母さんに浴衣を着付けてもらった時のこと。
「浴衣deダブルデート」に、我々は心を弾ませていた。
彼女には大好きなヤンキーの彼氏がいて、お母さんに帯を結んでもらいながら、「〇〇くんと早く結婚して子供が欲しいの!」と無邪気に語っていた。私にはない無邪気さをうらやましく思ったことを覚えている。

お母さんは、やれやれという感じで聞いているようだったけど、その流れでこちらにも話題がふられた。
私は、「いつか結婚はしたいけど、子供は作らないって決めてるので~」というようなことを普通に言ったと思う。
そのお母さんは、どんな表情をしていただろう。困ったような顔をした気もするし、哀しい顔をしたような気もする。
とにかく、その表情を見て「やべ、これってあんま言わない方がいいことなのかも」と思った。

この時、しっかりチャックを閉めていればよかったのに私はジーパンを脱ぎ、かわいい浴衣を着せてもらい、草履で団地を飛び出してしまった。
あの日は編み込みも上手にできて、いつもより少しだけ女子になれた高揚感とデートらしきものに浮かれ切っていた。
パチンコとテレクラの街で。
ヤンキーとギャルが集うお祭りに、カートコバーンに憧れてボロボロのジャックパーセルを履く女子が馴染むとは思えないが、それはまた別の話。

14歳、最大のチャンスを逃した。
私は「子を持たない」という決意を、当たり前にある人生の持ち物として、その後も小脇に抱えて生きていくことになる。

24歳、新卒で入った会社を辞めた後の2社目で、チャック全開事件が起きる。
部長に呼び出され、彼のお気に入りだった私の同期の女子と3人で食事に行くことになった。中途で入社した2人には今年のボーナスは出せないので、代わりに食事に連れて行ってやろうという名目だった。

もう顔も思い出せないが、親会社から出向している社内で一番権力のある男だった。
その男は、今回の中途採用には200人の応募があったが、私を「学歴」で、同期の女子を「顔」で選んだ、とのたまった。
私は冷静に、「学歴担当も顔担当も、そこそこすぎるだろ!」と思ってしまい、腹も立たなかった。顔担当の彼女がどんな反応だったかも全く記憶にない。

そんな中、彼は我々20代女子に、恋愛や結婚についての話題を振ってきたのだろう。
「だろう」というのは、そこまでの道のりを全く思い出せないからなわけだが、同期の彼女は「今まで彼氏がいたことはないが、とにかく早く結婚して子供が欲しいんだ」というようなことを言っていた。

本人から後に聞かされたことだが、彼女は10代で卵巣に病気が見つかり、いずれは摘出する可能性が高く、少しでも早い出産を希望していたそうだ。
人生における優先順位が明確で、安い給料に見合わぬオートロックのマンションに住み、気が強く、自尊心の高い女子だった。
私の半径数メートル圏内に生息する人間のなかで、ピンクのラインストーンが全面に施されたスマホケースを持つ人は後にも先にも彼女だけだ。

それほど親しくもなく、好きでも嫌いでもなかったけれど、女という性で生まれたばかりに持つことになった様々な苦みについて考える時、「子宮」や「卵巣」という臓器がきしみ、そんな時はいつも彼女のことを思い出す。
彼女には今もキラキラのネイルで、キラキラのスマホを持ち、平成味あふれるアラフォー姉さんでいてほしい。

また散らかってしまった。
話を品川の飲み屋に戻す。(実際はどんなお店だったか、何一つ思い出せないが)

「へえ、この子も子供が欲しいんだなあー」とぼんやり話を聞きながら、自分も話を振られると、当時付き合っていた彼のことは伏せながら(職場で恋人の存在を完璧に消すマンだったので)、「私は子供をつくらないことを幼い頃から決めているので、何歳までに結婚したいとか全然ないんです」というようなことをノーガードで言ったはずだ。

そこで、彼は激高した。
びっくりした。
本当に、びっくりして前後の記憶が曖昧なのだ。

細かいことは覚えていないが、「そんな女は最低だ」「どうして女のくせにそんなことが言えるんだ」というようなことを激しい口調でまくしたてられて、その後も人格を否定されるようなことばを浴びせられた。
そのあと自分がどんな表情で、どんな言葉を発したか、全く記憶がない。
泣いたかもしれないし、ヘラヘラ笑ったかもしれない。
とにかくひどく混乱した。

覚えているのは、帰り道、悔しくて悔しくて、解散した駅のホームで、携帯を開き、そいつの連絡先を「軽蔑」という名前で上書きしたことだ。

「あいつは軽蔑すべき人間で、金輪際あの男は私になんの影響も与えてはならない!」と泣きながら心に誓った。
そもそも、私がなんらかの病気で、産む機能がなくてそのような発言をしている可能性や、親との関係に重大なトラウマを抱えているなど、やむにやまれぬ事情があることを想像すらできず、想定外の発言をした他者に対する嫌悪の感情に任せて自分の孫でもおかしくない世代の女子を罵る異常性に震えるほど怒った。

ちなみに、私の理由は身体的なものでも大きな心の傷によるものでもない。が、それによって彼への軽蔑度合いが変わることは微塵もない。

「軽蔑氏」と名付けるだけでは収まらず、悔しくて涙が止まらない私は、駅のホームで、当時の彼氏に泣きながら電話をした。
そこで彼がどんな言葉をかけてくれたかも忘れてしまった。
でも、汚い言葉でそいつを罵り、一緒に怒ってくれたような気がする。
彼とは最後まで傷つけあうことばかりだったけれど、よそで私が傷つけられた時、一緒に怒ってくれるいいやつだった。

その一件で、私は学んだ。
子を持たない選択は軽々しく口にするべきではない。ついにチャックを閉めたのだ。
それまでの間、多くの場面で同じような発言をしていたので、その度に周囲に静かな衝撃や困惑を与えていたのかもしれない。いやはや、知らなんだ知らなんだ。


チャック全開事件から15年。私はもうすぐ40歳だ。

気付けば少しずつ景色が変わってきたように思う。
いまだ、私の身近に積極的に同じような選択をした友人こそいないが、様々な場面でそのような選択を口にする女性や、そういう選択肢をもって生きている人がいるんだよ、という話題をテレビなどでも目にする機会が増えた。

私自身はといえば、夫との出会いを通じて一時期その決意が大きく揺らぐ経験をした。交際当初から、子を持ちたいと語っていた彼と、そのつもりのない私は、結婚前から幾度となく将来の話をした。
その後の数年間で、大きく遠回りした末、最終的に二人で生きていく選択をした。

しかし、実はこのところ、朝目覚めた瞬間に「これで本当によかったのかなあ」というつぶやきが脳内で聞こえることがある。なぜか決まって早朝に。
40歳を前に、そのつぶやきの頻度は増える一方だ。

自分で自分を盛り上げるのがあんなに上手だったなんて意外だったけれど、「遠回り」の最中、一瞬だけ、母親になるポジティブなイメージを持つことができた時期があった。そもそも私は子供の頃から、ちょっとどうかという位、赤ちゃんや子供が大好きなのだ。
私をせき止めていたのは、世界や他者や、何より自分に対する不信だけだった。夫と付き合い始めてすこしずつそれらが溶けていったのである。
最終的には、それでもやはり母にはならないと選択したのだけれど。

子供のころから疑いもなく抱えてきた決意を、一度手放したのちに、また改めて(それも、愛する他者と共に)選びなおす決意は、それまでの人生で一人で持ってきたものとは全く異質に変容しており、ズシリと重いものだった。
あんなに軽やかに小脇に抱えて生きてきたのに。

ついつい、選択しなかったものに未練を持ってしまうものだが、ありえた無限の可能性を想って、哀しくなるのはなんだかずるい。
結果的に、最高な夫と最高な2人暮らしをしているので、この人生でよかったと心から思っている。

でも、母を「かわいそう」でなく「かわいい」と思う訂正があと10年早かったら、とか、もう少し早く母親との物語を訂正し、世界や他者や自分をゆったりと温かい眼差しで見つめ、信じることができていれば、とか。
タラレバはつきないのだ。

夫を父親にしてあげたかった、というスーパー傲慢な気持ちもある。
このわずかな苦みの存在を否定することはできない。私はこの苦みも、この先の持ち物として一緒に生きていく。

しかし、ひとまずは!!
15年前に駅のホームで悔し泣きするボロボロな自分を、最高にラブリーな我が夫と一緒に迎えに行こうじゃないか!!!
そして、これからも一緒に歩いていこうぜと背中を叩いてやりたい。

とにかくパーティーを続けよう、これらかもずっとずっとその先も。
このメンツ、このやり方、で!!!!

おしまい。