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アトツギ社長が就活で学んだこと

こんにちは、袋屋のシコーで社長をしている白石です。はじめは抵抗のあったnoteですが、そろそろ書くのも慣れてきました。自分の就職活動は結構珍しいケースだと思うので書き連ねてみようと思います。

人は誰しも自分の人生を振り返ったときに「自分なりの挑戦」があると思います。「挑戦は人を成長させる」と考えている私は、その挑戦は、それぞれの人がコンフォートゾーンからでさえすれば何でもいいのです。

挑戦は人それぞれで、それぞれの成果を積み重ねれば成長につながると考えています。そんな私の就活は人生のターニングポイントとなるチャレンジングな体験だったなと40歳を超えて感じるようになりました。
こちらで書いている就活のことを少し掘り下げた感じです。

当時していた就職活動

忘れもしない2004年の3月28日。大学の卒業式も終えた自分の22歳の誕生日のこの日に私の就職先は家業であるシコー株式会社に決まりました。

当時の就職活動は内定をいくつか頂いたものの、何となく納得がいかずに全て辞退。そのあとは青年海外協力隊の説明会に行き最前列でまじめに説明を聞いてみたり、留年する前提で次年度の採用活動に参加してみたりと迷走していました。当時どうしても行きたかった企業に対しては、その想いを手紙に書いて投函したりもしていました。

父から家業に入る場合は12月までに意思表示をするように言われていたものの放置。3月末になってようやく腹を決めて父に入社させてほしいと語る決意ができました。

・大学まででれたのは家業のお陰なので恩返しをしたい
・アトツギという立場で色々な経験をすれば成長できるのではないか。。。


当時は悲壮感を漂わせながらそんなことを考えていました。そして、その話をする場所に選んだ場所が実家近くにあるタクシー運転手さん御用達の喫茶店「アメリカン」。ここに当時社長であった父を呼び出してお願いをしました。時間は確か午後2時くらい。ランチタイムも終わりなので店内は閑散としていました。

アメリカンでの最終面接

母が父をたてる教育方針だったこともあり、父には子供時代から今までタメ口で話をした記憶はありません。4人兄弟の仲で3番目(次男)の自分がは他の兄弟よりも父の顔色を気にする性格でもありました。そんな私にとって12月末までの期限を3カ月も過ぎた状態で入社をお願いするのは、精神的にかなりつらいものがありました。

せっかちな自分でも、とんでもない緊張から入社させてほしいとすぐに言い出すことができずに、本題を切り出すまで要した時間は2時間。本当に中身のない「自分の仕事観」を延々と壊れたテープレコーダーのように繰り返して話し続ける私と、それを黙って聞き続ける父という構図。

近くのカウンター席で遅めのランチを楽しんだ後に珈琲とタバコで一息つくタクシードライバー。話した内容よりも、その風景を今でもよく覚えています。

2時間が経過したところで、父が感情を押し殺して発した一言でとまっていた時間が動き出す。

「で、オマエは何がいいたいねん?」
ここから20秒で私の最終面接が終わり、内定がでました。

私「すいません。。。会社にいれてください」
父「えっ!?オマエ、本気か?」
私「はい。」
父「わかった・・・」

この4日後からしれっと家業で働きだしたのであります。

まとめ

自分にとって社会人になる前に体験したアメリカンでの20秒間のやりとりは、それまでの就職活動を通して一番価値ありました。それはきっと、自分が心から思っていることを自分の言葉で相手に伝えるという挑戦だったからです。

当時の私がどうしても行きたくて手紙を書いた企業は、その10年後に無くなったことを新聞で目にしました。今から10年後には世の中はもっと変化しています。

凡庸な自分としては小さくてもよいので、自分のコンフォートゾーンを抜け出す挑戦をすること、そして自分の選択を全力で肯定することモットーにしています。そうであれば、失敗へのリカバリーに全力で臨めるからです。

来週で社長になって3年目に突入します。一つの節目として色々と振り返ったときに真っ先に頭に浮かんだのがこんな家業への入社経緯でした。そして、常に寛容な父と私をいつもサポートしてくれる社員の皆さんに感謝した次第です。

最後は毒にも薬にもならない美談でまとめあげましたが、どこかの誰かに何かが伝われば嬉しゅうございます。

おあとがよろしいようで。

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