Forget-me-not (1)

著者からのお断り:(これは小説本文ではありません。)本作品は、海外滞在中にそこを舞台にして書いたものです。日本人と日本の地名が一つも出てきません。不思議に思われるかもしれませんが、人名や地名は小説の主要な要素ではありません。深い意味はありませんので、お気になさらず、お読みください。

ここからが小説です。


Forget-me-not


ワスレナグサの花言葉: 私を忘れないで


 前にも会ったことがあるのだろうか。

 恐らく。

 また会えるだろうか。

 そう決まっているのならば。

 でも、誰がそれを決めるのか? 

 オレはまだ、舞台回しの名を知らない。

 このことが起こる前、人生は何もかも、自分が決めるものだと思っていた。今はその確信がない。ところが、そのことに、オレはある種の平安を得た。というのは、結局、この世に予定されなかったことは一つもないようにも思うからだ。

 オレはただ、予定を思い出せないまま、行くべきところに向かっているのかもしれない。


*******


 アストラ・ルブルー。ほんの少しラテン系言語の知識がある者なら、あるいは、イタリア系やスペイン系やギリシア系の移民なら、わかりやすく覚えやすい名前だと感じるだろう。

 青い小さな星。こぼれ落ちそうな翡翠色の大きな瞳に、よく似合う名前だった。

 隣に、中年の男が立っていたが、オレを含む男の捜査員はみな、彼女以外は見ていなかった。伏し目がちに床やテーブルばかり見ているアストラの睫に見とれながら、目を上げてこちらを見ろと念じているうちに、あらかたの説明は終わっていた。オレ達の前に突然現れた青い星は、中年男と署長に挟まれ、会議室を出て行った。

 彼女は警察官ではないというところだけは、話を聞いていたので頭に入っていた。DNAの標本採集や特定が専門だということだから、どこぞの大学の研究員が、連邦警察の全国作戦に狩り出されたということらしい。過去にお宮入りになった事件の証拠物件を片端から調べ直し、昔の技術では採集できなかったDNAサンプルを採集分析し、過去に採集したがDNA特定の技術が未発達で使えないまま保存されていた微量標本からのDNA特定を、最新の技術で再度試みるという、迷宮入り事件解決大作戦は、今後三年は続くといい、警察以外からも人材を借用したのだった。

 アストラは、ここには三ヶ月滞在し、保管してある証拠物件を分析し直し、ここが済んだら隣の署に行って同じ作業を続けるそうだ。首都から一緒に来た中年男の方は、挨拶と顔つなぎということだから、明日には帰るだろう。

 いやはやご苦労なことだと思った。三ヶ月ごとに三年間、職場を転々とする生活など、男でも嫌がる。家庭が破壊されかねない勤務形態だ。それなりの報酬は出るのだろうが、そんな仕事を引き受けるからには、独身で恋人もなしか、と思うと、オレの心が明るくなった。

 そう考えたのは、オレだけではなかったようで、この日から俄かに鑑識の前の廊下の人通りが増えた。かく言うオレも、用もないのに何度もそこを通るからこそ、人通りが増えたことを知っているのだ。

 これに署長が気付かないはずはなかった。

「迷宮入り事件特別捜査作戦への皆の関心が殊の外高いようだから、専門家に再度説明に来てもらった」

と署長が言ったときには、オレは、笑った方がよいのか、まじめに頷いた方がよいのかわからず、他の奴らの顔を見回してしまった。

 今回は私服の捜査官だけではなく、制服警官も呼ばれたらしく、大会議室はぎゅう詰めで立ち見が出た。

 半ば疲れたような、半ば馬鹿にしたような顔をして、アストラ・ルブルーはオレ達の前に一人で立った。(先日の中年男はもう、首都の方に戻ったのだろう。)

 初めて見た日は、ゆったりしたコートの前を合わせていたから、身体の線は見えなかった。今日は、ゆったりした白衣を着ていて、身体の線はやはり見えなかった。足が見えるかなと白衣の裾の方に目を走らせれば、グレーのスラックスが見えた。

 人前で話をするのが嫌いなのだろうという印象を持った。声が震えたり、神経質に手を振り回したりするわけではないが、誰とも目を合わせようとしない。アストラは、手元にある資料に目を落としたり、目を上げても怯えたように窓の外に視線をさ迷わせたりしながら、一分弱の説明を終えた。

 DNAが証拠として大切だということは、昨今の警察関係者なら、(警察関係者でなくとも)、誰でも知っているが、DNA標本の採取は、鑑識課の者でなければやらないから、オレ達の関知するところではない。せいぜい、目に見えない証拠が目に見える証拠(服や靴や家具や地面など)に付いている可能性があるので、むやみやたらに触らず踏まず、注意して扱ってくれというくらいしか、説明の仕様もなかろうと思う。

 だから、一分も経たないうちに終わってしまった。何を考えていたのか知らないが、署長は、質問はないかと促した。それで、いつも格好ばかり付けているブリッグスが、なんだかもっともらしい科学的な質問をしたが、言い馴れないことを言おうとするものだから、文章が知りきれトンボに終わった。アストラは何を聞かれたかわからなかっただろうが、当たり障りのない一般論を言って切り抜けた。

 署長の粋な計らいをこれ以上無駄にするのが馬鹿馬鹿しくなり、オレは、

「動物園にはもう行ったのか、行ってないなら、この週末に行かないか」

と質問した。

 動物園は、この町に用のない人間が、それでもこの町に泊りがけでやって来る唯一の理由と言える観光名所だ。小さいながら、コアラとカンガルーに触ることを許す動物園なので、子ども連れには特に喜ばれる。それ以外は、子どもだましの遊園地ならあるし、酒を飲む場所は幾らでもあるが、めぼしいものはない、中途半端に都市化され、交通の便のすこぶる悪い、郊外の住宅地だ。

 オレが質問を言い終わらないうちに、男達はからからと笑い出した。女の警官達は、目玉をぐるりと回して呆れていた。アストラは、苦笑いをして、前に行ったことがあるからもう行く必要はないと答えた。前に、というのが、今回この町に赴任するよりも前に、という意味に聞こえたのか、オレのすぐ側にいた若い制服警官が、

「この町に前にも来たことあるんですか」

と聞いた。すると、アストラは一瞬、動揺し、

「いいえ。今回が初めて。でも…前に、動物園には行ったから」

と答えた。

 その受け答えの様子から、嘘をついているなと思った。動物園に行ったことがあるなら、この町に来たことがあることになり、動物園に行ったことが無いなら、この町に来たことはないことになるはずなのだ。アストラの答は、奇妙に曖昧だった。

 刑事の本能とでも言うのだろうか、人の言動を深めに読んで、勝手にいろいろ憶測せずにはいられない。なぜ隠すのだろうか、あるいはなぜ筋の通らないことを言うのだろうか、と不審に思っているうちに、別の若い警官が、住所はどこかと聞いた。

 今や部屋中が笑いに包まれた。アストラは、何も答えずに口の端をひん曲げ、署長を見やった。署長がにやにや笑いながら、説明会をお開きにした。またな、とか、頑張ってくれよ、とか、いろいろ声が掛かっているのを無視して、アストラ・ルブルーは会議室を後にした。

「愛想がねえなあ」

 聞こえよがしに、誰かが言った。オレはブリッグスの方を振り返り、嘘を付いていると思うか、と目顔で問うた。オレの聞きたいことがわかったのかどうか、ブリッグスはただ肩を竦めた。

 

 目が妖しくても、愛想のない女に興味を持ち続ける男はあまりいない。目は愚鈍でも、首筋が美しい女や、脚が美しい女がいるし、外見は人並みでも、心が人一倍優しい女とか、やることが可愛らしい女とか、勿体無いくらい夢中で愛してくれる女とか、世の中にはいい女がたくさんいる。冷たい女に固執する必要はない。部屋にいた男達の九割方が、興ざめしたに違いなかった。オレが興ざめしなかったのは、アストラが、この町に前にも来たことがあるかどうかという単純な質問に動揺した理由を知りたくなったのと、丁度、恋人も恋人候補すらもなく、寂しい限りの時期だったからだ。

 

 とはいえ、オレ達には、あまり恋をする暇はない。勤務時間があってないようなものだから、いつ暇になるのか、前もって知ることもできない。

 たまたま、五時ごろに暇が手に入った日は、用もないのに鑑識の前を通ってみるが、事件が起きれば、そんな暇はなくなる。

 アストラは、別に急を要する仕事をしているわけではないので、五時ごろに切りの良いところで切り上げて帰宅の途に付いているはずだった。 

 あんなに愛想がなく、男友達も作らずに、定時退勤した後の長い夜をどう過ごしているのだろうかと不思議に思いながら、無意味に鑑識の前を通るということを三、四回したところ、ある日、鑑識の扉から出てきた彼女とばったり出くわした。

「今、帰り?送ろうか?」

 アストラが市バスで通っているのか、電車で通っているのか、車で通っているのかも知らない。おまけに冬の終わりとはいえ、日も長くなってきたから、外はまだぎりぎり明るい。実に馬鹿げた質問だが、こういうことから、男と女の会話は始まるのだ。

 アストラは、

「車だから」

と言った。やっぱりな、と思いながら、

「車まで送ろうか」

と平気の平左で言い返した。小学生の頃から練習しているのだから、慣れたものだ。

 アストラは虚を突かれたように足を止めた。彼女の口元がほころんだ。こんな風に声をかけられるのは、初めてではないだろうと思う。彼女の方も、小学生の頃から、言い寄られる修行を積んでいるはずだ。

 アストラは口の端に笑みを残したまま、黙って歩き始めた。オレは黙って並んで歩いた。

「冷え込むね」

「そうね」

あとは言葉もなく、彼女の車に着いていた。

 小型の青いクーペだった。スバルだから、輸入車だし、四輪駆動だし、値が張るはずである。金には困っていないんだな、と思い、次には、いや、贅沢好きで借金を抱えている可能性もある、などと思っている。刑事の習性だ。

「ありがとう」

 リモート・キーのひょうきんな鳴き声を聞きながら、彼女は小さな声でそう言い、車のドアを開いた。それから、あ、という顔をして、くすりと笑い、コートを脱ぎにかかった。オレは何も言わずに手を出し、彼女のバッグを持ってやった。たとえコート一枚であっても、女が目の前で服を脱ぐということに、男というものはいささかときめいてしまうものだ。ベージュのブラウスとグレーのズボンに包まれた身体の線をなぞるような目玉の動きを悟られまいと慌てながら、バッグを返した。

「ありがとう」

 もう一度言い、アストラは車に乗り込んだ。窓を開けて何か言うでもなく、窓の中から手を振るでもなく、さっさと発進して走り去る彼女を見送り、オレは、愛想がねえなあ、と呟いていた。

 女の好みというのは人それぞれで、よく笑う楽しい女がいいという奴も居れば、男のように酒をがんがん飲んで大胆なことをする女がいいという奴も居れば、水が滴るようにセクシーな女がいいという奴も居る。

 オレの場合は、謎に弱い。謎を解くまで気が済まない性分だから、捜査員になってしまったというのと通ずるところがあるのかもしれない。ところが、謎めいた女というのは、すこぶる非効率な好みだ。謎を解いてみたら面白くもなんともなく、意地悪で性根の腐った女だとわかる、ということも大いにあり得る。

 今回も、つまらない結末に終わるかなあと思いながら、もう一度、アストラを車まで送った日があった。またしても、寒いね、そうね、では、目も当てられないから、映画に行こうかと誘ったが、断られた。筋がないのは明らかになったから、馬鹿馬鹿しくなり、オレも他の奴らと同じように興ざめしようと決めた。

 

 人生には、欲が無くなった瞬間に、願いが叶うということがよくある。

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