春さん (五)
5.キヨミ
以前は、週に二日はうちに遊びに来ていたのに、春さんは、怒っているのか、傷ついているのか、あれから二週間、来ない。
あの日は、アネシュカに何かあったら、本当にこの女を刺し殺して自分も死のうかという勢いで腹を立てたけれど、結局、娘は無事に帰ってきてくれたので、なんだか、私の怒りも、空気が抜けた風船のようにしぼんだ。
あの夜は、娘をそっとしておこうと思い、何も話さなかった。翌日、娘は普通に土曜日のバスケットボールの練習に行き、帰宅するとすぐ、ショッピングセンターに出かけ、四時間後には迎えに来てくれと電話があり、行ったら、ニコも隣に居た。手を振って、やあ、こんにちは、という調子だ。車に乗り込みながら、アネシュカは、ニコと仲直りした、と言い、弾けるような笑顔を見せた。以来、アネシュカも、ニコも、あっけらかんとしている。ニコは、うちに平気の平左で遊びに来て、うちの和食をちゃっかり食べ尽くして帰ったりする。
まったく、あの騒ぎは何だったんだと思い、ぐったり疲れた。
聞けば、ニコがもう一人の女の子(エイミーというらしい)とは、デートしないと約束してくれたらしい。デートと言っても、よくよく聞いてみれば、映画に行って手をつないで、ポップコーンを一緒に食べたとか、その程度のことらしい。可愛いもんだった。何だったんだ、本当に。
浮気と言えば、大人はすぐに身体の関係を持ったのかと疑うが、アネシュカもニコも、幸い、まだそういう領域には達していないらしい。この国には、十二歳や十三歳でも大人顔負けの体格をして、平気でそういうことをしている子も居るから、安穏としてはいられないと思うが、娘には日ごろから、決して無闇に性交渉を持ってはいけないことは話している。今のところ、いいつけを守ってくれているらしいことを知り、少し安心した。
でも、アネシュカと話をしているうちに、
「お母さんさあ、もう、女捨ててるでしょ。化粧もしないし、服装もめちゃめちゃだし。恋とかって覚えてないんでしょ。避妊とか、性病とかさ、医者と話してるみたいだよ。それも、男のお医者さん。おばあちゃんの方が、よっぽど話し相手になるわ」
と言われた。
私はやっぱり、娘にさえ、女ではないと思われている。一体何をどう間違って、こうなってしまったのだろう。あ~あ、と思うが、私の服装やすっぴんを全然気にせず、家事能力や生活力を評価してくれる夫がいるのだから、別にいいじゃないか、とも思う。
ヤネックは、当時まだ珍しかった和食レストランに、珍しいものを食べたがって訪れ、私を見初めた。ワーキングホリデーで、ウェートレスのアルバイトをしていた頃のことだ。今でこそ、すべてのショッピングセンターにスシ・ショップがあり、とても寿司とは呼べないヘンテコなネタを載せた「なんちゃって寿司」が並んでいるが、当時は、和食レストランなど、市の中心部に数えるほどしかなかった。
そこで夫が私を「見初めた」というのは言い過ぎで、和食が気に入ってしまったから通った、というのが真相だ。そして、和食を毎日食べたかったら日本人と結婚するしかないという、当然の結論に達したというのが真相だ。
これは、私達の「馴れ初めネタ」。人に聞かれると必ずこう話し、笑わせることになっている。でも、六割本当だ。残り四割は、まあ、ヤネックも、私のどこかに惚れてくれたのだとは思う。
夫は特にハンサムではない。私とは反対に、鷹が鳶を生んだ例で、春さんに初めて会った時は、夫とは似ても似つかぬお義母さんの美貌に、卒倒しそうになった。でも、その後、彼が十三歳の頃の写真を見せられた時には、失神しそうになった。こういうの、詐欺っていうんだよね、と思う。どうしてこう、同一人物が、天使のような美形から、むさくるしい普通のおっちゃんに化けるのか。
まあ、いずれにしろ、もう、私も夫も恋人募集中ではないのだし、見かけなんてもう、どうでもいいんじゃないの。こういう態度が、女を捨てたって言われるのかなあ。
などと一人、考え事をしていたら、電話が鳴った。
春さんだった。
一瞬、言葉に詰まった。
が、互いに、何事もなかったように、挨拶を交わした。そして、春さんは、あの夜の記憶を喪失したかのように、いつもの凛とした口調で、今夜、四十分ほど離れたコミュニティセンターに、車で送迎して欲しいの、と言った。チェコ人のダンスパーティがあるらしい。また、コスモスの花畑みたいな、白地にピンクや黄色や赤や薄紫を散りばめたドレスでも着て、真っ赤な口紅を差し、色香を振りまきに行くのだろう。前に一度、そういうパーティに同行した時には、ほろ酔い加減になった春さんが、見境なく周囲の男に愛嬌を振りまく姿に、仰天したものだ。
でも、ヤネックによると、彼が子どもの頃から、家に男を連れてきたことは一度もなく、再婚の話も、一度もないのだそうだ。
「母さんは父さんのことが本当に好きだったんだと思う。父さんを基準に考えるから、理想が高くて再婚できないんだろう。ボクは、父さんのこと、何一つ思い出せないんだけどな」
そう言うヤネックは、普段は飄々としているのに、指先でつついたら泣き出してしまいそうな顔をした。夫にとって唯一の、禁断の話題。彼の、記憶にない父。
どんな素敵な人だったんだろう。
息子が三歳の時に逝った夫を想うあまり、一生再婚しないなんて、春さんは、ある意味、本当のロマンチストなんだな、と思う。その潔さというか美意識を、私も不本意ながら尊敬している。時代錯誤というのかなんというのか、今時、「貞女二夫にまみえず」なんて格言を本気で全うする人がいるものだろうか。大体、彼女は日本人でもない。こんな格言があることすら知らないのだ。
だからこそ、それほど深い愛だったんだな、と思う。春さんほどの美女にそこまで想われるような男。写真でしか見たことのない私の義父。一体どんな人だったのだろう。生きているうちに会いたかった。
もうすぐ、アネシュカが、学校から帰って来る。
窓に目をやると、春さんの趣味で植えさせられたコスモスとゼラニウムが満開で、まるで家の脇から妖精が出てきそうな、すこぶるロマンチックな庭になってきた。
こんな可愛らしい花園に囲まれた家に住んでいるのは、実は、春の女神ではなく、身づくろいも化粧もしない、オトコオンナなんだよ。
なんてことは、足を停めて感嘆の声を挙げる通行人は、知らない。
(春さん、完)
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