カモミールの日(二)

 今日は、朝一時間の営業会議の後、客先を三件回ることになっていた。訪問の順番をうまく調整し、大手町の客先から直帰できるようにしたから、いつもより早く帰れるはずだった。

 外資系の営業職は、顧客を失くすようなことさえしなければ、結構、行動の自由が利くので、友成は、初めのうちはむしろ戸惑うことが多かった。一泊二日の社員全員強制参加の温泉旅行などという古臭い「福利厚生」は無く、代わりに、会社が承認する研修コースなら、語学系でも技能系でも教養文化系でも、かなり広範な各種生涯学習コースの授業料を、社が半額負担してくれる。仕事に役立つような語学や技能を着々と身に付け、月に一度の営業会議に報告して恥ずかしくない業績を維持し、顧客からの文句や苦情や注文をきちんと技術部門に報告していれば、九時から五時まできっちり働いていなくても、文句は来ないのだった。

 上司に聞いても仕事を丁寧に教えてくれるわけではない。自分で考えて自分で勝手にやれという雰囲気に慣れるまで、しばらく、不安な思いをしたが、慣れてみると、前の会社より居心地が良い。忍と付き合い始めたことによって、転職する踏ん切りが付いたことを思えば、巡り巡って、忍に感謝しなければならないような気さえするのだった。

 忍に感謝しなければならないことは、他にもたくさんあった。忍は結構、料理が巧く、何でもないことのように、おいしいものを食べさせてくれた。忍も稼ぎがあるので、友成の財布に現金がなかった時など、

「あ、いいよ、ここは私、払っとく」

と財布を出してきて、何でもないことのように払ってくれた。

 前の恋人は、デートのときに絶対に自分の財布を出してこなかったし、手料理などというものはとんと出てこなかったので、こういういろいろなことについて、友成は心の中で忍に感謝していた。

 しかし、それにも増して、感謝することの第一は、何と言っても、身体を許してくれることである。男が何のために恋人を持つかと言ったら、これが究極の理由だろうと思うのだ。百年前のように、男も女も年頃になったら、親から親戚から町内会までが手を尽くして身を固めさせた時代とは訳が違う。女の方はどうだか知らないが、男は十六、七で性欲だけは全開になるのに、大学を卒業して数年経つまで、結婚するような資金も場所も意思もない。仕事に就けば、結婚するような資金はなくても、旅行したり、車を買ったりするくらいの金を持ってしまい、今度は遊びにのめり込んで、結婚する気など益々なくなる。かと言って性欲は消えてなくなるものではないから、「恋人」と言うものが必要になるのだ。

 もしかしたら女の方も、その辺の事情は同じなのかもしれないと、忍を見ていて思うことがあった。はじめて身体を許してくれたときも、それほど大層なことをしてやったとか、してもらったとか思っている節はなかった。身体を許すからには責任取ってね、というような発想はしないらしい。気まずそうな顔をしながら、自分の方から、

「コンドームしてね」

と言うくらいだから、もちろん、未経験ではなかったが、そのことに、こちらも驚かなかった。むしろ、あの年齢で処女だったら、びっくり仰天しただろう。

 会社に二十五歳の忍が入ってきたとき、社内に独身の男は四人しか居なかった。その内、たまたま恋人が居なかったのが友成だけだったので、恋仲になるのは必然だったのかもしれない。忍の方にも恋人が居ないらしいということがわかり、それなら、声を掛けてみようかと思い、声を掛けたら、嫌がらずに映画や食事に付いて来て、四ヶ月も経つ頃にはそういうことになっていた。

「お前、手持ちの駒を使い回すようなセコい真似やめろよな。男なら、もうちょっと冒険して、どっか他の会社とかさ、他の国とかさ、そういうとこから女をかっぱらえよ」

と酔っ払った営業部長にひやかされたが、たまたま傍にいた女が自分のことを好きになってくれて何が悪い、と友成は思ったものだ。

 忍は確かに、自分のことを好きになってくれたと、友成は感じ、そのことにも感謝していた。前の恋人は、その辺が今ひとつはっきりしなかったのだから、この女は俺を好いているという安心感は、新鮮なものがあった。

 そのことに気付いたのは、二度目に忍の家に泊まったときだった。忍が、照れ笑いをしながら、

「ねえねえ、くっついて寝てもいい?」

と擦り寄ってきた。

「いいよ」

と言ってやったら、自分の肩に頬を寄せた忍が、あどけないと言ってもいいくらい子供じみた笑顔を見せた。

(甘えん坊なんだ。かわいいなあ)

と思った途端、本格的に恋に落ちたように思う。その前までは、悪いが、もらえるものならもらってしまおうというくらいの気持ちで、誘ったのかもしれなかった。

 あのときの勢いがそのまま続けば、あの年に結婚しようと言い出していたかもしれないと今でも思う。それを意識したからこそ、転職もしたのだった。社内結婚して男の方が会社を去るということは、あの旧式の会社では許されないような気がした。そうなれば、友成は、あの会社に残り、忍が辞めざるを得なくなっただろう。友成のあの会社の給料では、二人の人間が暮らしていくことはできそうになかった。そこで、まず、友成がもっと高い給料を得られるような会社に転職し、その後、結婚し、忍が妊娠するようなことがあっても、何とかなるだろう、というような算段が頭の隅にあった。

 あの癇癪を見るまでは、そうだった。

 忍の癇癪は、今でも謎だ。ごく普通の、常識的な、有能と言ってもいい経理事務員で、きちんと一人で部屋を借りて自活し、料理も掃除も洗濯も人並みにして、冗談も通じるし、よく笑うし、セックスだって普通にする女なのに、どうしてああいうことになってしまうのか、友成には理解できなかった。性格の問題と言ってしまえばそれまでだが、今までに三度目撃した癇癪は、正直に言えば、逃げ出したくなるくらい恐かった。

 恐いというのは、自分に危害が加えられるのが恐いのではない。正常な人間にはあり得ない、狂気の片鱗が恐いのだった。

(この女は狂ってるのか?)

と思い、その同じ女が、普段はどれほど普通にしているかを見るにつけ、尚更、その乖離が不気味になった。

 わけのわからないものからは逃げ出したくなるのが人情だ。初めてあの癇癪を見たときは、友成は逃げ出して一ヶ月以上、忍の顔を見なかった。

 大体あの癇癪の原因が何だったかさえ、あの時も今もわからずじまいのままだ。約束の時間に遅れたということくらいしか考えられないが、遅れたからと怒ることなど、あの日までは一度もなかったのだ。

 泊まりに行くと予告した時間より、三時間も遅く忍の家に着いた時、家の中から、がしゃんとか、ばさんという音が聞こえ、友成は強盗にでも入られたのかと思い、大慌てで扉を叩いた。

「開けろ、俺だ、おい、中で何してる」

というようなことを叫んだ。

 扉を開けたのが強盗ではなく、忍本人だったことに、どれほど安堵したか知れないが、その直後、忍が普通ではないことに気が付いた。

 忍は、既にパジャマを着ていて、後ろに見える室内は、皿やコップが床に落ちて割れ、寝室の床には、友成の服や下着が、本やCDなどと一緒に、ぐしゃぐしゃに散らばっていた。

 忍は泣いていた。

「何があったんだ」

と言いながら抱き寄せようとすると、女とは思えないような力で突き離され、

「帰ってよ。もう顔も見たくない」

と言われた。半狂乱の忍は、気に掛けていないようだったが、こういう状況では、まず隣近所の世間体を気にするものだ。

「おい、ちょっと待てよ」

と言いながら、友成は忍を押し返し、なんとか玄関の中に入り扉を閉めた。

 忍は拳を振り上げ、

「出てってよ。出てってよ」

と泣き喚いた。その両手首を握り、とりあえず、殴られないようにしてから、

「どうしたんだよ」

と聞いた。忍は、

「他に好きな人ができたんでしょ。誰かと会ってたんでしょ」

と言い、渾身の力を込めて友成の手を振り解くと、よたよたと寝室の方に行き、床に座り込んで、友成の服を手で引き裂こうとした。

 何十着も持っているわけではない。服を引き裂かれるのは現実問題として困るので、友成は、慌てて飛び掛るように忍の手を握り、やめさせた。

「やめろよ。何、考えてんだよ。新人歓迎会とか言われて、誘われたから、飲んでただけだよ」

忍は聞く耳を持たず、

「新しい会社に、いい人がいるんでしょ。英語なんかしゃべって、かっこいい人がいるんでしょ。私はセックスするのに都合がいいから飼っとくんでしょ。わかってるよ。そんなこともわからないくらい馬鹿だと思った?」

と言い、自分をあざ笑っているのか、友成をあざ笑っているのかわからないが、涙を流しながら、あははははと素っ頓狂な声を上げて、笑って見せた。

 その姿に背筋が凍り、友成は、逃げ出そうと思った。

「飲んでただけだよ。信じられないなら勝手にしろ」

と言い、現実問題として本当に困るので、服だけをかき集め、どこかの箍が外れたように泣いたり笑ったりしている忍を残して、アパートを出てきてしまったのである。

 自分の後ろで閉めた扉に、がしゃんとか、ぽこんとか物が当たる音がした。友成は呆れ果て、何をどう思ったらよいのかすら、わからなかった。

 

 一週間ほど経ってから、

(確かに、飲み会の途中に電話すればよかったんだよな)

と少し反省した。

 それから、更に一週間ほど経ってから、ふと、自分の閉めた扉には物を投げても、自分に当たるようには物を投げなかったことに思い至り、振り上げた拳も、まるで止めてもらうことを期待しているように、振り下ろしては来なかったことに思い至った。

 忍なりの喧嘩のルールというものがあるのだろうとは思った。しかし、あれは「喧嘩」ではなかった。「発狂」に近いだろう、と思い、薄ら寒くなり、友成は狐につままれたような思いで、自分からは何も行動を起こさなかった。

一ヶ月以上経ったある日、忍から電話があった。

「トモ君?」

と言ってから、

「友成さん?」

と言い改めた忍は、

「怒ってる?ごめんなさい」

と謝った。友成は拍子抜けした。

「お前の方が怒ってんだろうが」

と言うと、

「怒ってないよ」

と言い、しばらく間をおいて、

「恋人できた?」

と聞く。

「まだ、そんなこと言ってんのかよ。飲んでただけだって言っただろう」

と声を荒げると、

「そうじゃなくて、あれから、あの後、他の人できた?」

と言うから、

「そんなに手ぇ早くないよ。悪かったな」

と言ってやった。

「じゃあ、許してくれる?戻ってきてくれる?」

と言う声が割れ、電話の向こうで洟をすする音がした。

 友成は迷った。結婚してもいいくらいに好きになりかけた女だ。他には何も困ることも嫌なこともない女だ。それでも、狂っているのかもしれないという思いは、それらをすべて帳消しにするくらいに、恐いものがあった。頭の中で、警告ブザーがぶーぶー鳴っているようだった。

「お前、ちょっと恐かったぞ、ていうか、変だったぞ」

と正直に言った。

 すると、何度か洟をすすった後、忍は、

「私、癇癪持ちなの。ごめんなさい。もうしないから」

と言った。

 このときまで、あの忍の状態を何と形容していいかわからなかった友成は、

(癇癪持ち。癇癪か。癇癪っていうのか。癇癪ね)

と、その言葉を反芻し、わけのわからないものに、名前がついたことで少し安心したような気になって、

(そうか、癇癪だったのか、そんならまあ)

という、よくわからない理屈で、よりを戻しても良いような気持ちになった。

 それに、やはり惚れた弱みというものもあったのだと思う。どこにどう惚れたという説明はうまくできないが、甘えん坊でかわいい女が自分のことを慕っているのに、一回くらい「癇癪」を起こしたからと言って、捨てるような冷たい男ではない、と格好を付けて、許してやるのは、やはり愛着があるからだ。

 癇癪は一回では済まなかったが、あとの二回は、友成とは直接関係のないことだったらしい。

 一度は、友成が着いたときには、もう、片付けが始まっていた。ぐしゃぐしゃになった部屋に、箒を持って佇み、忍は、決まり悪そうに俯いて、

「ごめんなさい。もう、終わったから」

と、黙々と部屋を片付けた。

 その姿がまた恐いとは、忍には言えないことだった。

(普通じゃないか。常識的じゃないか。片付けするってところが、まともじゃないか。そのお前が、どうしてこんなことしたんだよ?)

と思うと、不思議で不思議で仕方がなかった。自分が泊まりに来ない日にも、自分の知らないところで癇癪を起こしているのだろうと思うと、それもまた不気味だった。

 もう一度は、去年の春先だから、一年と少し前になるが、友成が着いた時には、部屋の中は足の踏み場も無いほどになっていた。忍の姿を探すと、ベランダで、テラコッタの植木鉢を、金槌で一生懸命殴っていた。数週間前から花を付け始めたカモミールが、土を付けたまま横倒しになり、植木鉢よりも先に殴られたらしく、花も茎もぺしゃんこにへしゃげて、コンクリートに張り付いていた。

「おい、やめろよ。忍、やめろったら」

 金槌を取り上げると、忍は素手で植木鉢に殴りかかり、割れたテラコッタの角で指を切った。その痛みにひるんで、殴るのをやめ、

「返して」

と手を伸ばしたのが、金槌を返して欲しいのだということがわかるのに、少し時間がかかった。ああ、そういう意味かと思い、

「だめだよ。もう、壊すなよ」

と言うと、

「壊したいの、全部、壊したいの。私なんて生きてても仕方ないんだから、もう全部いらない」

と叫び、声を上げて泣き出した。

 このとき友成は、

(やっぱり癇癪とは言わないんじゃないか?)

と思ったのだった。

 忍は、何か心に荷物を背負っているのだということに、遅ればせながら、思い至った。生きてても仕方ないなどという言葉が、癇癪で出てくるだろうか、と思った。

 友成は、ぐったり疲れて、また逃げ出したくなった。

(やっぱり普通じゃないんじゃないか。どこかおかしいんじゃないか)

 係わり合いになったのが間違いだったような気がした。

 それでも、逃げなかったのは、泣きじゃくる忍が哀れでならなかったからだ。友成は、忍の手を取って引っ張り上げ、抱き上げて部屋の中に連れ戻した。床をいっぱいに覆った服やハンガーや紙や本や写真のアルバムなどを踏み付けながら、ベッドのところまで行き、その角に座り、忍が泣き止むまで、膝の上に座らせ、子供をあやすように抱いていてやった。

 忍の嗚咽が収まってから、

「何があったんだよ」

と聞くと、何度か喉の奥の塊を飲み込んでから、忍は、

「ごめん。また、癇癪起こしちゃった」

と言った。

(こういうの、癇癪とは言わないだろう)

と思いながら、友成は待ったが、忍は、ごめんなさい、としか言わなかった。

 しばらく後、忍は、友成の膝に乗ったまま、涙を溜めた目でベランダを見やり、

「カモミール・ティー、できなくなっちゃったね」

と言い、ぐったりと立ち上がって片付け始めた。

 切った指から流れる血を時々口で吸いながら、黙々と片付ける忍の打ちひしがれた姿を見て、忍と既に何度も何度も身体を重ねたベッドの角に座ったまま、友成は、迷った。

 その内心を見透かしたように、片付けの手を止めた忍が、

「ごめんなさい。もう、二度としないから。もうしないって約束するから」

と言った。こういう状況で、悪いけど、お前は気味悪いから別れる、と言える男が居るものかどうか知らないが、友成には、そういうことはできなかった。

 だから、今日まで恋人で居て、別々に暮らしている。同棲してしまえば、二人合わせて十六万三千円にもなる家賃を、大幅に節約できるのはわかりきっているが、毎日一緒に暮らしたら、あの「癇癪」をもっと頻繁に何度も目撃する羽目になり、結局嫌になって別れるだろうと友成は思っていた。

 自分が泊まりに来ない日に、どれほどの頻度で癇癪を起こしているのかは知らないが、友成が忍の癇癪を見たのは、去年のそれが最後だった。

 その数週間後、忍は、

「同じ形は縁起が悪いっていうか、なんていうか」

と言いながら、今度は円形ではなく四角いテラコッタの植木鉢を買ってきて、またカモミールの種を撒いた。

 カモミールというのは繁殖力の強い植物らしく、一ヶ月もすると花がたくさん咲き、忍は自家製のカモミール・ティーを作ったり、風呂に花を浮かべたりして、楽しんでいる。

 そして、今年も、忍が種を撒いて、芽を出したカモミールの花園が、小さなベランダで満開になっているのだった。

 

 忍を妊娠させるようなことをしてしまったのは、三月二十七日だった。年度末に何人か会社を辞めるので、送別会をやり、ほろ酔い気分で忍の部屋に帰り、合鍵で入って明かりを付け、どかどか音を立てて、寝ていた忍を起こした。

 ベッドの上で半身を起こした忍の、眠いときにいつも見せる、なんともあどけない無垢な顔を見て、堪らなく愛しくなり、そのまま、事に及んでしまった。自分では、酔っていても、自分の行動を制御しているつもりだったが、ゴムを嵌めるのを忘れたのだから、かなり酔っていたらしい。気が付いたら事は終わっていた。

「おい、着けるの忘れちゃったよ。やばいか、今日?」

と言ったら、

「え、忘れちゃったの?ええ、ちょっと待ってよ」

と言いながら、忍は、友成の身体の下から這い出し、浴室に飛び込んで行った。

「もう遅いと思うぞ。もう遅いぞー。なんだよぉ。そんなに俺の子を産むのが嫌なのかぁ?おーい。戻ってこーい」

などと酔っ払い丸出しの駄々をこねながら、友成はさっさと先に眠りに落ちた。

 翌朝になって心配しなかったわけではないが、世の中には、子供を作ろうと努力してもできない人達がたくさん居るのだから、一回の不注意でできてしまう確率はかなり低いだろうと高を括っていた。

 今朝、妊娠したと告げられたとき、忍が冷静だったことに、友成は心底驚いた。続いて、実は数日前から疑い始め、三日前に一度自分で妊娠検査をし、陽性だったので、念のため三日待ち、もう一度今朝やってみたら、やはり陽性だったから、ほぼ間違いないと、淡々と告げられた。

 その冷静極まりない判断力と、数日間、そんな心配をしていることはおくびにも出さなかった忍の自制心に、益々驚いたのだった。

 こういうときこそ癇癪を起こさないのだろうかと思ったが、忍は、青い顔をしているだけで、癇癪は起こさなかった。その顔色を見て、忍も産みたくないのだと確信した。自分の方はと言えば、申し訳ないが、やはり忍と子供を育てる決心が付かなかった。三年ほど前に、一度、結婚してもいいと思った相手だが、突き詰めれば、

(あの「癇癪」があるんじゃあ、結婚も子育ても、やめといた方がいいんじゃないか)

というところに行き着くのだ。

 それを言ったら傷つくだろうから、

「経済的に苦しいよなあ」

と苦しい言い訳をした。同じ家に住んで家賃を浮かせば、友成一人の稼ぎで、忍と子供一人くらい養えるのだから、これは真っ赤な嘘だった。

 そんなことは、わかっているだろうに、

「うん」

と言った忍も、金を理由に堕ろしてしまいたいのだろうと思われた。二十五歳から三年半、半同棲生活をした恋人を二十九歳で妊娠させ、やんわりと堕ろせと宣告している自分は、今年三十一になる。

 こんなことを親父に知られたら、半殺しにされると思った。お袋に知られたら、二度とうちの敷居を跨ぐなと言われると思った。姉貴は姉弟の縁を切ると言うだろうと思った。

 こういう状況になっているのに、忍は、五・十日だから経理は絶対休めないと言い、検査薬の空き箱をくしゃっと潰して捨て、洗面所で顔を洗い、化粧台できちんと化粧をして髪を整え、仕事用のきちんとした服を着て、いつも通り、友成と一緒に電車に乗った。

 さすがに、不安げな顔をして、ほとんど口も利かなかったが、そういう姿を見ていると、しっかりしているじゃないかと思い、自分さえやる気になれば、結婚しても子供ができても、やっていけるのではないかと思い始めた。

 それでも、忍の方が産みたくないのであれば、強制的に産ませることはできないのだ。今思えば、忍の方から、結婚してほしいというようなことを言ったり匂わせたりしたことは、一度もなかった。

 友成は、初めて、忍は自分のことをどう思い、自分たちの将来のことをどう考え、この三年間を恋人として過ごしてきたのだろうと訝った。今まで、一度も、こういうことを忍に聞いたことはなかった。だから、早く帰って、今日はしっかり話し合おうと、顧客訪問の順番を調整し、大手町の客先から直帰できるようにしたのだった。

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