カモミールの日(一)


カモミールの花言葉:逆境に負けない強さ、親交、仲直り



 朝から、気もそぞろで、数字や漢字や会社名や科目を何度も書き間違え、打ち間違えた。

 そんな忍を見ていて、温和な課長が、とうとう堪忍袋の緒を切らし、

「四年も働いてんのに、まだ仕事を覚えられんのか」

と叱りつけた後、

「何かあったんか」

と心配してくれた。

 こういう時は、人の厳しさも優しさも勘に触るもので、苛々することしかできず、何も言わずに、ばたばたとファイルを閉じたり開いたりしていたら、

「岡田と喧嘩したのか」

と言われ、いよいよ我慢できなくなった忍は、

「ほっといてください」

と席を立った。

 社内恋愛のなれの果てというのは、実に始末の悪いものだ。

 誰もが忍と友成が恋仲になったことを知っているので、その窮屈さに耐えられず、ただの事務員の忍よりも転職しやすかった友成の方が転職した。友成にとっては、より安定した外資系の中堅企業に技術系営業の職を得て、給料も上がったから、それなりに良かったのかも知れないが、会社にそのまま残った忍にとっては、居心地の良いものではなかった。

 友成が去ったことは、若い人材のロスだったので、営業部長に嫌味を言われた。結婚して忍の方が家庭に入り友成が残れば良かったのに、最近の若い者の考えることはわからないと、社長は面と向かって文句を言った。それでも、最近の若い者はわからない、と言うことによって、一昔前だったら許されなかったことが許される時代になったから、忍は居心地の悪さを我慢して居座ることができた。

 「いつ結婚するの?」

と初めの頃はよく聞かれたが、それももう聞かれなくなった。当分結婚しそうにないことも、それを職場中の人が感づいて訝っていることも、もう気にならなくなった。ただ、事あるごとに、親切だがおせっかいな課長に、

「岡田と喧嘩したのか?」

と聞かれるのだけは、我慢がならなかった。

 社内の人と顔を合わせたくないときに、行かれる場所は女子トイレくらいしかない。

 中央区八重洲という住所だけを見れば立派だが、十階建ての事務所ビルは、二十世紀も終わりに近づいているというのに、まだ東京駅前の大通りに建っていていいのかと思うほど、古かった。女子トイレには個室が一つ、洗面台が一つしかない。これを三階の忍の同僚である女性事務員五人と、二階の別の会社の女性事務員三人が共有している。

 幸い、トイレには誰も居なかったので、忍はただ憂鬱な気分をやり過ごすためだけに、洗面台の前に立った。

 ふと、顔に出るものだろうか、と思い、まじまじと自分の顔を見た。肌がつややかになるとか、逆に肌が荒れるとか、赤みが増すとか、そんな話を誰かから聞いたか、どこかで読んだことがあるように思う。

 いくら見ても、顔は何も変わっていないようなので、自分の顔を見るのはやめ、何気なく前髪に手櫛を入れたとき、白髪が一本つんと飛び出したので、指先で梳かし付け、目立たないように隠した。そういう歳になったということだ。そういう歳になっても結婚しそうもなく、結婚しそうもない理由が自分にあることも重々承知している。これから、どこへ向かうのか、考えてもわからないことだから、考えないようにして来たのに、いよいよ考えなければならなくなってしまった。

 この歳で中絶したら、その痛手は、若い頃にするよりも大きいのだろうか。それとも年齢は関係ないのだろうか。きちんとした所で処置してもらえば、一生、子供が産めなくなったりしないのだろうか。それとも、それは単に運不運の問題なのか。大体、自分はこの子を産みたいのか、流してしまいたいのか、そもそも結婚したり、母親になったりする気があるのか。そういうことができる人間なのか。

(トモ君のせいだよ)

と心の中で、恋人を呪った。

 そうしながら、本当の責任は自分にあるのだと思った。

(お前がいけないんだ。だから、彼はお前と結婚したくないし、この子も欲しくないんだよ)

そう囁く声が、心の隅から聞こえてくると、涙を堪えるのが苦しかった。

 しかし、泣いている場合ではない。できるだけ早く、調べて決めなければならないことがたくさんある。どこで、いつ、どのように処置するのが安全なのか、どうやって会社にわからないように処置することができるのか、そのためには何日の休みを取らなければならないのか、あるいは週末にできるのか、どのくらいの費用がかかるのか、知らないことが多すぎる。こういうことを皆、一、二週間の内に調べて決めて実行しなければならない。これは一種のプロジェクト、あるいは作戦行動だ。そのくらいに腹を括って心を引き締めて、全力投球で掛からなければならない問題だった。

(この子は「問題」なのか)

と、ふと思い、その考えの恐ろしさと身勝手さに怯えるように、忍はトイレを飛び出した。

 

 トイレを飛び出すと、戻る場所は自分の席しか無かった。

 課長は、腫れ物には触らないで置こうというような涼しい顔をしていた。何事もなかったような顔をして、忍は席に付き、再び帳簿に向かった。

 中小企業といえども、従業員を三十余人も抱え、この不景気に生き残っているのだから、千万単位の金や物を動かすこともある。七つ八つと並ぶ数字の羅列の一つにでも間違いがあってはならず、間違いがあったら、何時間でも残業して、帳簿の左右が合うまで間違い探しをする羽目になるのは、自分だった。

 一つの命を消してしまおうという算段を練っている最中であろうとも、数字の入力ミスをしてはならなかった。まるで、七つ八つの数字が、一つの命よりも重いかのように。

 それでも、人間というものはそうして生きていくものなのだ。きれい事では済まされないのだ。自分はこの子を殺し、自分の生活を守るために、経理の仕事を間違えずにこなすのだ。そういうものなのだ、と忍は思おうとし、そう思い込むことができないまま、何度もミスを犯し、それを何度も修正し、一日をやり過ごした。

 そういう一日の終わりに、電話が鳴った。相手の声を聞いた途端、電話を切って、受話機を壁に叩きつけてしまいたいほどの憤怒を感じた。これは危険信号だ、と忍は思った。この種の憤怒を感じるとき、遠からず自分が壊れることを知っている。

 叩き切らずに平静を装って話す間、忍は掌に汗が滲むほど、受話器を握り締めていた。

「どうしたの、急に」

と聞くと、母は、

「もうすぐ、お母さんの誕生日だからさあ、お父さんが、デパートで買い物してやるって言い出して、ついでに、忍の顔、見て行こうって言うから。後で寄るね」

と言う。

 父が母に誕生日の買い物をしてやるというからには、父も母も機嫌が良いのであろう。それは大変良いことだった。勝手にして、と忍は腹立たしく思った。こんな日に両親がアパートに来ることは、何とか避けなければならなかったが、咄嗟に言い訳を思いつかなかった。

「うちに来なくても・・・掃除してないからさあ、外で食事じゃだめ?」

と言ってみたが、

「お母さんに見栄張っても仕方ないでしょうに。ちょっと顔見るだけだからさ、どうせ、うちに帰るのに通り道なんだから、行くよ。忍も、もうすぐ仕事終わるだろ。お母さん達、今、新宿の伊勢丹だからね。車だから、忍とどっちが先に着くかわかんないくらいだね。道、混んでるかしらね。先に着いたら、合鍵で入っていいね?」

と、どんどん話を進められた。

「ちょっと、勝手に入らないで」

と言うと、

「何よ。隠し事でもしてんの?そんな言い方ないだろ。外で待ってろっていうの?」

と問い詰める声が感情的になってくる。忍はおろおろし始めた。

「だってお父さん・・・」

と言いかけてから、職場の電話であることを思い出して声を潜め、

「お父さん、友成さんの靴とか見たら、きっと怒るから、来ないようにしてよ」

と言ってみた。

「お父さんだって、友成さんとお付き合いしているのは知ってるんだから、靴くらいで怒ったりしないよ」

 お付き合いどころか半同棲しているのだし、靴以外のありとあらゆるものがあるのだった。そのことは、まだ、母にも話していないのだから、本格的に危機的状況だった。

 忍は時計を見た。五時五分前だった。仕事が終わっていなくても、五時きっかりに帰らせてもらい、東京駅まで走り、五時八分の特別快速に乗れば、恐らく、両親よりも早く帰ることができる。

 忍は諦めた。

「ちょっと時間潰して来てよ。やっぱり、散らかってるの、嫌だからさあ。先に入らないでよ」

と一応言い、それでも両親は先に着けば先に部屋に入るだろうことを確信しながら、受話器を置き、片付けにかかった。課長を見ずに、

「課長、あの、親が勝沼から出て来てしまったんで、きっかりに帰ってもいいですか?」

と言うと、

「いいよ」

とすんなり言ってくれた。「友成さんの靴とか見たら」と自分が言ったのを聞いていない振りをして聞いていて、何に慌てているのかを察してくれたに違いない。明日になればきっと、どうだ、大丈夫だったか、などと余計なことを聞くに違いない。こういうところが課長は親切でおせっかいで、適度な思いやりがあって、この人の部下であることは、案外、有難いことなのかもしれなかった。

 ロッカーからバッグを出し、エレベータを待つより速いと、階段を駆け下り始め、途中で、ふと立ち止まった。

(走っていいんだろうか?)

 このくらいの時期に、階段を駆け下りると、流産するものだろうか、と思ったとき、いっそ自然流産してくれたらどんなに楽だろうという思いと、流産するような走り方をした自分を、結局、自分で責めることになるだろうという思いが、交錯した。

(産みたいの?)

と自分に問う。

 産みたいのではない。産んで育てるなどという芸当ができる自信はこれっぽっちもなかった。でも、殺したくはないのだ。これ以上自分を責めるネタが増えたら、生きていけないだろうと思う。

(誰か助けて)

 悲鳴を上げたかった。朝から堪え続けた涙が滲み出し、足元が見えなくなってしまったので、走ることはもうできなかった。これほど追い詰められたことは、いまだかつてなかった。世界が全部、自分の上に崩れかかってくるように感じた。

 階段を上がってくる人に会うかもしれないので、忍は慌てて涙を拭い、歩いて階段を下りた。走れば、五時八分の特別快速に間に合うはずだった。間に合わなければ、両親が部屋に入ってしまうだろうから、こんな日に、もう一つの修羅場を迎えることになるのは必定だった。それでも、走ることができないのは、お腹に宿した子どもを、たとえ事故でも流してしまうのが恐ろしいからだった。

(いやだ。人殺しにはなりたくない。これ以上、自分を責めたくない。助けて。どうしたらいいの。誰か助けて)

 心の中で悲鳴をあげ、気が狂いそうになりながら、忍は足早で駅まで歩いた。

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