カモミールの日(三)

 恐らく自分より先に帰っているだろう忍が、また、家の中を滅茶苦茶にして半狂乱になっているだろうかと心配になり、そうなっていたら、自分は何をどう話し、どういう結論に持って行きたいのだろうかと悩み、何一つ決められないまま、友成は忍のアパートの階段を重い足取りで登り始め、六段目で、その物音を聞いた。

(やっぱり)

と思い、ぐったりと、益々重くなった足を一歩一歩引きずるように、階段の上に辿り着いた。ため息を付き、忍の部屋の扉の前に立った。

 その扉が完全に閉まってはいなかった。部屋の中から、男のくぐもった罵声が聞こえた。友成は、突然全く別のことを心配し、慌てて扉をいっぱいに開けた。 

 台所の床には、何も落ちていないと思ったら、浴室の扉のそばに、今朝、忍が使って捨てた妊娠検査薬の空箱が転がっていた。寝室の床には、忍の服が散らばり、歳の頃は、六十くらいかと思われる女が、忍の化粧台の上に載っている香水瓶やヘアケア製品に襲い掛かって、床にぶちまけたところだった。

「こんな着飾って、洒落込んで、喜ばしてんだね。いいように使われてんだよ。あんたみたいな子と真面目につきあう男が、いるはずがないだろう。別に美人でも金持ちでもないんだから。ええ? 惚れたの好きだのって言われて、騙されてるだけだよ。馬鹿な子だね、ほんとに。身体許しちまって。だから、くっついてるに決まってるじゃないか。こんな・・・」

と、化粧台の引き出しの中身に取り掛かり、その女は、買い置きのコンドームを見つけた。

「こんなもん、ほんとに、売春婦並みだよ、お前は、こんなもん」

女は怒り狂い、コンドームの小箱を床に叩きつけた。

 引き出しの中のものをばらばらと床にぶちまける女の側に立ち尽くし、

「友成さんは、ちゃんとした人だよ」

と言う忍は、こちらに背を向けていて顔は見えなかったが、声が涙声だった。

「ちゃんとした人が、嫁入り前の娘に手を付けて、孕ませるか、ばか」

と言った男は、やはり六十がらみで、頭は禿げ上がっているが、忍と同じ位の背丈の、がっちりと骨太い健康そうな体格だった。

 その重そうな腕が空を切り、忍の耳のあたりを、平手が打った。

 忍がよろめくのを見て、それまで玄関に立ち尽くしていた友成は、

「何するんだ、やめろ」

と、靴も脱がずに上がりこんだ。

 振り向いた忍の顔は、涙に濡れていた。それなのに、一拍置いて、

「今、取り込み中だから、外してくれる?」

と、ぞっとするほど落ち着き払った声で言った。

 状況から、相手は忍の両親なのだろうということは理解できた。忍の両親の方も、友成が誰であるかくらいは察したであろう。憮然として、

「あんたが、友成か」

と、忍の父が聞いた。

「岡田友成です。殴るなら、私を殴ってください」

 用意していたわけでもないのに、友成は、咄嗟にそう言い、自分より頭一つ小さい男に、頭を垂れて差し出した。

 忍の父が何も言わないうちに、隣で、忍が、

「お願い、外してくれる?」

と、もう一度泣き声で言った。

 忍の父は、ふんと鼻を鳴らし、

「ほんとにあんたの子なら、あんたを殴る意味もあるんだろうが」

と言った。友成は耳を疑った。目を上げると、忍の目から涙がぽろぽろ流れ出し、身体が震えていた。

 三十一年生きてきて、友成は、この種の悪意というものを、目にしたことも耳にしたことも無かったように思った。

(そういう言い方はないだろう。そういう言い方するかよ、普通)

と思いながら、腹の中に沸々と怒りが湧き上がり、アドレナリンが血管の中を駆け巡り始めるのを感じた。無意識に拳を握った。

「そういう言い方はないでしょう」

 怒りを堪え、唇の間から搾り出すように言った友成を、蔑むような目で斜めに見上げ、

「あんたは知らないことがたくさんあるんだよ。淫売の血が流れてるんだから」

と忍の父が言った。忍と忍の母が、同時に、

「お父さんやめて」

「あんた、やめてよ」

と言った。

「血は争えないってことだな。もう勝手にしろ。きちんとした嫁入りをさせてやろうと思って、短大に行かせてみたり、金貯めたり見合いの話探したり・・・お前もやっぱり母親と同じ淫売なら・・・淫売の子は淫売だな」

 なじり続ける父親の横で、忍の母親が床に膝をつき、あーあー泣き出した。

 忍は、疲れ果てたような呆けたような顔をして、頬を伝う涙を拭おうともせず、立ち尽くしていた。

「産むんじゃなかったよ。あんたみたいな子は、ほんとに産むんじゃなかった。あんたを産んじゃったから、こんなことに」

 床に蹲って母親が嘆き、忍は目を閉じ両手で耳を覆った。

 嗚咽の合間に、

「ああ、産むんじゃなかった、産むんじゃなかったね」

と言い続ける忍の母親の声だけが、しばらく部屋の中に響き、とうとう友成が、

「出てってください」

と怒鳴った。一旦、口を開いたら止まらなかった。

「出てってください。出て行ってください。何なんですか、あなた達は。自分の娘によってたかって。何言ってるんですか、ねえ。あなた達の方がおかしいでしょう。忍はちゃんとしてますよ」

拳を握り締め、逆上し始める友成の腕にすがり、

「やめて、だめ、やめて」

と忍が言った。

 何がどうだめなのか、一瞬後にはわかった。

 忍の父親が母親を立たせてやったかと思うと、思い切り頬を張った。

「何が産むんじゃなかった、だ。あの男に脚開いたのは、お前の勝手だろうが。この、子どものせいにしやがって。この、この」

そう言いながら、この男は、床に這いつくばって頭を庇う妻を、所かまわず、ばしりばしり叩いた。

「やめて、お父さん、やめて」

と止めに入る忍が怪我をしないように、友成は、忍をまず押しのけ、忍の父親を羽交い絞めにし、二人の女から引き離した。

 相手は恐らく六十は回っているのだろうから、暴力を振るってはいけないと思った。それでも、忍の父親のがっしりと重い身体は、喧嘩をしたら、結構手ごわいかもしれないと感じさせるほど、まだまだ頑丈だった。自分は男だから恐いと思わないが、この男に殴られる妻や娘はどれほど恐いのだろうかと思うと、暴力を堪えるのが本当に難しかった。

 じたばたもがく老人を、怪我をさせない程度に壁に押し付け、何度か息を吸って吐き、普通に言葉が話せるくらいに、自分の息が整うのを待った。

「ここは俺と忍の家です。俺の家では、女には手はあげないことになってますから、出てってください」

 そう言ってから、ゆっくり放してやった。 

 言い返してくるのか、殴りかかってくるのかと、身構えていたが、忍の父親は、壁に寄りかかり、しばらく荒い息を吐いた後、何も言わず、玄関に向かった。

 その後ろ姿が消えて大分経ってから、忍の母親が、涙を拭きながら立ち上がり、バッグやら買い物袋やらを拾い集め、玄関に向かった。

「お母さん、行かないで」

と忍が小さな声で言い、友成は仰天して忍を振り返った。

「お母さん、今帰ったら、ぶたれるから、今日は泊まって行きなよ」

そういう忍の声は、涙声だったが、優しかった。

(そんな心配してやるのか。あんな酷いこと言う母親に、そんなことしてやるのか)

と驚きながら、確かに、あんな酷い事を言う上に暴力を振るう父親と一緒に帰らせたら、心配だろうというのは、わからなくもなかった。それでも、自分なら、こんなことは絶対に言ってやらない、と思った。

 友成は忍の懐の深さに畏れ入ったような気持ちになり、三年半も付き合った恋人を、まるで珍種の生物でも見るように、まじまじと見た。

 足を止めて振り返った忍の母親は、忍の顔は見ずに足元のあたりを見て、しばらく、もじもじしていたが、

「うちに帰る頃までには、収まってるよ、きっと。ごめんね、忍、悪かったね」

と言い、友成には何も言わずに出て行った。

 


 小さな女の姿が玄関から消え、扉が静かに閉まった後、友成は玄関に戻って靴を脱ぎ、それから背広を脱ぎ、ネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ外して襟元を緩めた。そうしながら、首を右に左に捻ると、首の筋がこりっこりっと小気味良い音を立てた。それほど、節々が固まっていた。たった五分ほどの出来事だったのに、マラソンでも走ったかと思うほど、全身が疲労に包まれていた。

(何てことだ。何だったんだ。何なんだよ)

と思いながら、先ほどと同じ場所に突っ立っている忍の方を見ると、

「ごめんね」

と言うから、

「お前が謝ることじゃないだろう」

と言った。

「嫌な思いさせたから」

「お前のせいじゃないんだから、謝るなよ」

 そう言いながら、忍は、こんな場面を何度潜り抜け、あんな酷い事を何回言われてきたのだろうと思ったとき、胸が痛くなり、忍を抱き締めてやろうと思った。

 歩み寄る友成に、忍は、

「ごめんね。もう迷惑かけないから」

と言った。

「何言ってるんだよ。お前のせいじゃないだろう」

と、友成は忍を抱き寄せた。

 ほっとしたように、忍はさめざめと泣き出し、しばらく泣いてから、突然、

「今まで、ありがとう」

と言った。まるで別れることが決まったかのような口ぶりに、友成は面食らった。

「何だよ。どういう意味だよ」

と聞くと、

「この子、流しちゃうの、私、かわいそうでできないから、産むかもしれないけど、もう迷惑かけないから」

と言う。

 忍の思考回路がどちらに向かっているのかを悟り、友成は本当に驚いた。

「おい、ちょっと待てよ。先走るなよ」

と言い、涙に濡れた忍の顔を拭いてやりながら、

「落ち着けよ。座ろう。とにかく、座れよ」

と、食卓の方に連れてきて座らせた。

 忍の真ん前に椅子を持ってきて自分も座り、忍の両手を取った。忍は、涙をぽつりぽつりと流し、両手を取られてしまったので、涙を拭えないまま、頬を濡らし、友成の前に座っていた。

 童顔だから、泣き顔は、尚更、子供じみている。こんな顔をして、一人で子供を産んで一人で育てていくと決心してしまったらしい。酔っ払って妊娠させ、それでも二の足を踏む自分が、忍と本当の意味で係わり合いになるのを恐がっているのを知っていて、一人で全部背負うと、心に決めたらしかった。青い顔をして、おろおろしながら仕事に出て行った朝から、たった十時間ほどの間に、覚悟を決めてしまったようだった。

 これは、父親に殴られるよりも効いた。

「忍、お前には、一発やられたよ」

 忍の頬の涙を拭ってやり、もう一度、忍の両手を握り、友成は、

「結婚しよう」

と言った。

 喜んでくれるかと思ったのに、忍は、呆然と一点を見つめて反応しなかった。もう一度言ってみようかと、友成が口を開きかけたとき、忍が、済まなさそうな顔をして言った。

「やめときなよ。見たでしょ、うちの家族。こんなこと、初めからわかってたのに、ごめんね、三年も無駄にさせて。でも、優しいからさあ、好きになっちゃったんだよね。ごめんね」

(そういう風に考えるから、別れようって思うのか。そういう風に考えて、今まで一度も結婚してほしいようなことを言わなかったのか)

と、友成は理解した。

 忍の謎が一つ一つ解けて行き、今まで自分が知っているつもりでよく知らなかった女の姿が、実像を結び始めた。

(甘えん坊でかわいいけど、危なっかしいと思ってた。全然違うじゃないか。何てことだ)

「お前の家族と結婚しようって言ってるんじゃないよ。お前と結婚しようって言ってるんだ。結婚しよう」

と、友成は言った。

「そういう問題じゃないと思うよ。あの人達が家族になっちゃうんだよ。やめといた方がいいよ」

 自分の置かれた状況をどこか遠くから見ているかのように、忍は平然と言った。

「じゃあ、お前、一生、誰とも結婚しないのか?」

と聞くと、忍の心がぐらりと揺れたらしく、また、涙が滲み出した。握ったままの右手を引っ張るので放してやると、顔を拭き、

「そうだよね、困っちゃったよね、ほんとに」

と言う。

(ずっとずっと困ってたんだろう。俺に一言も打ち明けないで、一人で困ってたんだろう)

 水臭いじゃないか、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。そういう科白を言う資格はない。忍が何か荷物を背負っていることに気づいていて、その部分に足を踏み入れないように、慎重に避けながら、近づき過ぎないように付き合ってきたのは、自分ではなかったか。

「聞いてもいいか。お前の家族、何があったんだよ」

忍は洟をすすり、目尻を指で拭い、ため息を付いて、話し始めた。

「お母さんね、結婚する前に、他にも好きな人が居たらしいの。それで、その人とも、そういう関係になってたらしいんだよね。だから、私、どっちの子か、わかんないの。顔もお母さんに似ちゃったし、血液型でもね、お父さんと、その、もう一人の人ね、同じ血液型だから、わかんないんだってさ、まいっちゃうよね」

「だからってなあ、あんな酷いこと、ずっと言われてたのか」

と友成は呆れ、忍のために先ほど感じた怒りが、またふつふつと蘇ってくるのを感じた。

「でもね、普段はね、結構、普通なんだよね。今日だって、お母さんの誕生日のプレゼント、お父さんが買ってやるって言って、デパート行ったんだって。なんかさあ、お父さん、お母さんのこと凄く好きだったらしいんだよね。それで、他の人が居るって知ったとき、凄くショックだったらしいんだよね。子供の頃、お父さんがお母さんをぶった後に、何週間もお母さんが居なくなっちゃうことがあってね、その男の人のところに戻っちゃうらしいんだけど。そういうときは、お父さん凄く優しいんだよね。毎日毎日、早く帰って来て、ご飯作ってくれて、遊んでくれて。お母さん帰ってくると、しばらく、一生懸命、優しくするんだよね。お母さんもね、時々出て行っちゃうことはあったけど、帰ってくると結構まともなんだよね。料理巧いからさあ、毎日、よく飽きないなあと思うくらい、ちゃんと一汁三菜作るんだよね。そのうち、何かで、お父さんがお母さんのこと許せなくなって、酷くぶって、お母さんが泣き喚いて、出て行っちゃうの。その繰り返し。もう最近は大分おとなしくなったみたいだけどね、今だに、喧嘩すると、いっつもあそこに戻って行っちゃうんだよね。何年経っても、何歳になっても」

 忍は、もう怒りを超越したところに行ってしまっているのか、怒ることに疲れてしまっているのか、諦めてしまっているのか、許してしまっているのか、友成には、よくわからなかった。

 ただ、一つだけわかったことは、自分の目の前に座っている子供じみた顔をした女は、只者ではないということだった。ああいう母親が、父親に殴られるのを心配してやり、好きになった男がああいう両親と係わり合いになるのは迷惑だろうから、別れると言う。それでも、できてしまった子供は、かわいそうだから産むと言う。

(そんなのだめだ、忍。そんなこと許されるわけがないだろう)

「おいで」

と言って、友成は忍を引っ張り、膝の上に座らせて向き合った。

「忍、お前はなあ、お前は・・・」

何と言ったらいいのか、しばらく言葉を探した。

「お前は、凄いよ。立派だよ。大したもんだ。お前は、いい子だぞ。いい子で、いい女で、ほんとに立派な人間なんだよ。なんていうか、今日までよく頑張った。俺、もっと早く気が付かなくて悪かった。お前には、ほんとに脱帽した。だから、結婚してくれるか?結婚して、俺の子ども産んで、一緒に暮らしてくれるか?」

 忍は目に涙をいっぱいに溜め、口をとがらせて、怒っているのかと思うような顔で、友成を見つめた。

「本気なの?」

「何度も言わせるなよ。俺、お前に惚れたんだよ。結婚してくれるか?」

 忍は、やっと、

「はい」

と言った。そう言ってから、またぽろぽろ涙を流した。

「泣くなよ」

「いいの。嫌な涙じゃないから、ちょっと泣く」

 友成の肩に顔を埋め、忍はしばらく静かに泣いた。

 

 

 泣いている忍の頭を撫でながら、友成は、一つだけ心配なことについて考えていた。こんなことを今日、言っていいのだろうかと悩んだ末、生まれてくる子のために、今、一度だけ言っておこうと思った。

 顔を上げ、涙を拭き、泣いたことを照れるように笑う忍に、言った。

「お前、もう、十分頑張ってるのに、こんなこと言うのは酷かもしれないけど、一つだけ頼んでもいいか。お前の、癇癪さあ、あれは、俺はもう、あれがどこから来るのかわかったような気がするから、驚かないけどさ、子どもにだけはやらないでくれるか」

 忍は神妙な顔で、

「はい」

と言った。それから、

「最後に癇癪起こしたの、いつか覚えてる?」

と聞く。もちろん忘れるはずがなかった。

「去年の今頃だろ」

「そう、去年の三月。でもね、あれから、一度も癇癪起こしてないんだよ。あの時ね、決心したの。好きな人に、私の一番醜いところ見せるのはもう嫌だから、もうやめようと思ったの。頑張ったんだよ、一年一ヶ月。今、記録更新中。子どものためなら、きっとずっと頑張れるよ」

 友成は目頭にぐっと来て困り果て、忍の頭を乱暴に自分の肩に押し付け、見られないようにしてから、指で目を押さえた。涙をやり過ごし、腕を緩めてやると、忍は、急に、

「でもさあ、トモ君のご両親が嫌がるよ、きっと。やっぱりやめた方がいいよ」

と言い出した。

「おい、大事なことなんだから、撤回するなよ。お前、もう、はいって言ったんだぞ」

と言ったものの、確かにそうだろうとは思う。ああいう修羅場を見たら、両親もかなり嫌がるには違いなかった。父親がわからない娘だと言ったら、あの世代の親はかなり警戒する。

 それでも、忍に会ったら、わかってくれるだろうという確信があった。わかってくれるまで、自分が説得すればいいのだ。

「心配するな。俺がちゃんと説明する。それに、お前がこんなにしっかりしているんだから、大丈夫だよ。大体、最後は、友成が幸せならそれでいいって言うんだよ、親父もお袋も」

 すると、忍は、

「そんなこと言ってくれるの」

と言った。その顔を見て、

(何てことだ)

と思い、また、忍の頭を押さえ込まなければならなくなった。

 忍に見られないように涙を拭いながら、

(大事にするからな。大事にしてやるからな)

という決意が、ひしひしと湧いてくるのを感じていた。

 

 やがて、

「片付けなきゃね」

と忍が言ったので、

「座ってろよ。身重なんだから」

と、忍を膝から下ろして椅子に座らせた。

「まだ全然重くなってないんだけど」

と笑う忍に、

「いいから、座ってろ」

と言い、友成は床に散らばった化粧品やら服やらを拾い始めた。

 あの母親が、あんな酷い事を言いながら床にぶちまけたものを、一つ一つ拾うなんてことをさせるわけには行かないだろうが、と思った。何てことだ、何てことだ、という言葉が、壊れたテープのように頭の中を巡っていた。


 

 化粧品や整髪料などを、どれがどれだかわかりもせずに、適当に引き出しに仕舞い、化粧台に並べる友成を見ていて、忍は、

(白粉、そこじゃないんだよね)

などと思いながら、今日は、やってもらおうと決め、黙って座っていた。

 母親が「産まなければよかった」と言いながら滅茶苦茶にした部屋を、自分で「生まれなければよかった」と思いながら滅茶苦茶にした部屋を、一人で片付けたことが、これまで何度あったろうか。自分のかわりに、癇癪の残骸を片付けてくれる人が居るということに、一度も味わったことのない安堵を感じ、この人を好きになって良かったと思った。

 そのとき、ふと、部屋の空気の色が変わった。陽が沈み始めたのだった。ベランダの向こうに広がる多摩川の河原の先に、オレンジ色の夕陽が降りて来ているらしい。夕陽そのものは、隣の軒の向こうに隠れて見えないのだが、黄金色の光が、斜めに窓から差し込み始めた。

「ねえ、カモミールが金色になるよ」

と忍は言った。

「え?」

と顔を上げてベランダを見た友成は、

「ほんとだ」

と言いながら、忍の側に寄って来ると、後ろに立って肩を抱き、忍の頬に頬をつけて、一緒に夕暮れを眺めた。

 カモミールの白い小花の花弁の先も、細い小さな葉の先も、夕陽を映して、すべて、黄金色に染まった。




(カモミールの日、完)

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