春さん (三)


3.ヤネック

 職場に架けてくることはまずないのだが、五時半前、突然、携帯電話が鳴った。キヨミからだった。アネシュカが失踪したと言う。

「失踪っていつのことだ」

と聞けば、一時間くらい前と言うので、

「なんだ、そんなの失踪とは言わない」

と言い、叱られた。

 ニコという名の彼氏と喧嘩したショックで、電話機も持たずに、トイレの窓から逃亡したと言う。彼氏が居たことすら、父親のボクは、今日まで知らなかった。彼氏と逃亡したと言われるよりは、娘一人で逃亡した方が良かったような気もするが、なぜ、彼氏と喧嘩したからと言って、うちから逃亡しなければならないのか、さっぱりわからない。

 ボクに何も言わせず、聞かせず、キヨミは、早口で、車がないから捜索に行けない、早く帰って来て、と言った。

 車はボクが職場に乗って来てしまっているので、キヨミは徒歩で近所中を探し回ったが、アネシュカは見つからなかったという。

 外は暗くなっていた。最寄りの駅まで歩けば二十分だ。電車に乗ってしまったなら、徒歩で追いつくことは不可能だ。電車で繁華街まで出たら、大人の世界の快楽も悪も闇も、よりどりみどり、何でもありだ。

 すぐ帰ると言い、電話を切った。

 

 ボクが自宅までの十五分のドライブをする間、キヨミは、娘の電話機から友達に電話しようとしたが、パスワードロックされていて、住所録にはアクセスできなかったと言う。

「ペアレンタルコントロールしてるだろ」

と言うと、

「してたけど、きっと、勝手に解除して、別のパスワードロックかけたんだよ」

とキヨミが言う。

「そんな方法あるのか」

「あるんじゃないの。私だって知らないよ」

 十代の子ども達の電話機を使いこなす能力には、ボクらは、ついて行けない。

 キヨミは溜息を付き、ボクの電話機やキヨミの電話機の住所録やログから、これまで電話をした番号を洗い直し、アネシュカの友達や友達の親やその自宅の電話番号と思われるところに、片端から掛けてみよう、と提案した。

「居なくなってから、一時間半だろ。あまり騒いで、何でもなかったら、アネシュカが、かわいそうじゃないか」

と言ってみたが、

「そんなこと言ってるうちに、攫われたら、どうするのよ。ドレス着たまま、出て行っちゃったんだよ」

とキヨミは叫ぶように言い、なぜか、母を睨みつけ、母は顔を背けた。二人の間で、また何か喧嘩したのかな、と思うが、今はそんなことを考えている場合ではない。

「夕飯作ってあるのに帰ってこないから、お友達の家でご馳走になってご迷惑かけているかと思って、申し訳ないと思いまして、くらいに言えばいいんだよ。頭使ってよ。ヤネック、早く!」

 いつにない剣幕で畳みかけるように言うキヨミと声が重ならないように、隣の部屋に行き、ボクはボクの電話機で、キヨミはキヨミの電話機で、方々に電話を架け始めた。

 これまでに、アネシュカが遊びに行ったことのあるお宅なら、迎えに行くために、親の携帯番号や自宅の固定電話の番号をもらって架けたことがあるはずだ。しかし、番号だけしか記録に残っていないものを、片端から架けても、見当違いなところが多かった。企業の代表番号で、時間外の音声応答につながったり、ピザ屋や中華料理屋の配達員の携帯電話番号だったり、いざという時に、携帯電話機のログほど役に立たないものはないなと、イライラする。

 でも、こういう時、キヨミの、まるで軍人なのかと思わせる判断力と行動力には、男のボクが恐れ入るものがある。先ほどの口調から、アネシュカのことを心配するあまり取り乱していることは明らかなのに、全く普段と変わらない声を出して電話の相手に話しかけ、アネシュカが立ち寄っていないと言われれば、あ、そうですか、ご迷惑かけてなくてよかった、どうもおじゃましました、と、明るい声で言い、内心はパニックしていることなど、おくびにも出さない。

 キヨミが冷静にやっているから、ボクも冷静に話せばいいのだと、なんだか、励まされているような気になっている。

 二人で十五分くらいかけ、ログに残っているすべての電話番号に架け終わったが、どの家にもアネシュカは居なかった。どこに行ってしまったのだろう。

「フェースブックで聞いてみる」

 先ほどよりも更に青い顔をしながら、キヨミは、アネシュカのために食卓のすぐ脇に設置した家族用コンピュータに向かった。アネシュカの年齢の子どもが、親をフェースブック友達にしてくれる例は珍しいのかもしれないが、うちは幸い、ボクは友達にしてもらえなかったが、キヨミがアネシュカの友達になっている。

「友達の友達まで見せる設定で、夕飯に帰って来るのかどうか、連絡待ってるから、連絡して、と書いてみた。見た友達が何か連絡くれるよ」

と、キヨミが言った。

 これ以上、何をしてよいか思い付かず、ボクはキヨミと顔を見合わせた。

「何か食べる?」

こんな時でも、ボクの腹具合を気にしてくれるのはありがたいが、食べている場合だろうか。

 そう思った時、家の電話が鳴り、キヨミが、はじかれたように飛び上がって受話器を取った。

「はい、え、ニコ?」

 その名前を聞いた瞬間、母がピンと眉を吊り上げ、キヨミにはわからないチェコ語で、このクズ、と罵った。母が、汚い言葉を使うのは、非常に、非常に、珍しいことだ。何があったのか、と、母に目顔で問うたが、母は目を背けて何も言わない。

 電話を切ったキヨミが振り向き、

「彼氏のニコだった。フェースブック見たって。心配してるって」

「心配してるなんて、嘘だよ。人間のクズなんだから」

と、母がチェコ語で、また罵った。

 それには構わず、キヨミはボクに、

「ニコがとりあえず、電話番号知ってる子に全部電話してみてくれるって。私たちが知らないアネシュカの友達の電話番号持ってるから、きっとすぐに皆に連絡が行って、皆で探してくれるよ」

と言った。

「その子のせいで、アネシュカは思い詰めたのよ。そんな子が何をしてくれるっていうの」

と横から、今度は英語で、母が言った途端、キヨミは母を振り返り、

「別れろ別れろってアネシュカに付きまとって詰め寄って、追い詰めたの、あなたでしょ。何言ってるの」

と怒鳴りつけた。それを皆まで言わせず、

「あなたには、乙女心はわからないんだから、黙ってなさい。アネシュカは、わたしの言ったことに傷ついたわけじゃないの。ニコに傷つけられたのよ。何言ってるの」

と母が怒鳴り返した。

「見境なく娘に可愛い服着せて、傷ついている娘を追い詰めて、今夜、アネシュカに、もしものことがあったら、あなたを絶対許さない。一生、憎む。殺す。殺してやる!」

とキヨミが言い放った。

 その時、電話が鳴った。キヨミは受話器を取り、まるで何事もなかったかのように、落ち着いた声で応対し、まもなく電話を切った。

「ニコだった。ラインやワッツアップで、友達皆にメッセージ送ったし、親しい友達には電話も掛けたけど、今のところ見つからないって。何かわかったら電話くれるって」

 嫁に殺すと言われた母がどんな顔をしているかと振り返れば、青ざめてはいるが、何を考えているか、わからない表情をしていた。

 僕はとりあえず、母に、一旦自宅に戻ってくれと頼んだ。そう言ってから、母が自宅に戻る手段がないことに気づいた。

「夜道を一人でハイヒールで、うちまで歩けって言うの?バスはもうないのよ」

と母も言った。その瞬間に、

「夜道を一人で歩くのが、自分でも恐いんなら、あんな可愛い恰好させて、家出するまで追い詰めたバカさ加減が、よくわかったよね」

とキヨミが言い、母につかみかからんばかりの勢いで、

「アネシュカに何かあったら、一生、呪うから、呪い殺すから」

と叫ぶと、とうとう泣き出した。キヨミがこれほど逆上したところを見たのは、結婚以来初めてだ。

 こういう時に、母と妻を同じ部屋に置いておくのは良くないのだが、車で母を自宅まで送る余裕は、今はない。

「ああ、ええと、キヨミ、ええとな、母さんに家に居てもらって、もう警察行こう。母さんが居てくれれば、アネシュカが電話してきたり、帰って来た時に、誰もいないってことにならないだろ」

と言った。

「警察行けば、今は、電車のCCTVの映像とか、結構どんどんわかるんだろ。アネシュカの携帯電話のロックも解除してくれるかもしれない」

キヨミは涙を拭い、うん、と言うと、寝間着のような部屋着から、それと大して変わらないように見える普段着に一瞬で着替え、電話機や財布を無造作にいつもの黒いバッグに突っ込み、玄関に向かった。

「あ、アネシュカの電話機」

と言い、廊下を引き返し、食卓に置き忘れたアネシュカの電話機を取った。その時、一瞬、母と目を合わせ、

「アネシュカが戻って来たら、また飛び出さないように、お願いしますね」

と母に言い、頭を下げた。母は、首をつんとくねらせて横を向き、何も言わなかった。

 

 警察署に向かうほんの数分の間にも、アネシュカの携帯電話が、ひっきりなしに鳴り始めた。娘は、自分のパスワードで電話機をロックしてしまったから、電話に出ることはできるが、他には何もできない電話機だ。

 心配している友達や彼氏からの電話だろうから、助手席に座ったキヨミが、電話に出ては、まだ見つからない、まだどこに居るかわからない、ありがとう、心配かけてごめんね、などと応答した。ほんの五分ほどの間に、ケイティという子が二回、ニコが三回も架けて来た。

 入電が途切れた時に、キヨミは唐突に、

「お義母さんにひどいこと言って、ごめんなさい」

とボクに謝った。

「うん」

とだけ、返した。

 ボクが帰宅する前に、一体何があったのか、よくわからなかったし、たとえそれを一から百まで聞かされても、男のボクには、きっと半分もわからないのだろうと思う。

 

 ボクが四歳になる前に父が死んでから、女手ひとつで育ててくれた母は、娘のアネシュカとはこの上なく仲良しで、妻のキヨミとも普段はうまく行っているが、二人の間には、よくわからない緊張関係がある。皆で仲良くやって欲しいと思うものの、ボクの力では、今一つどうにもできないようだ。

 キヨミを母に紹介した日、母は、なんでこんな醜い女と結婚するの、と言った。あれには、さすがのボクも憤慨し、珍しく激しい親子喧嘩をした。ボクがキヨミを本当に好きになったことをわかってくれたのか、しばらく後には、顔はともかく、性格は温厚で、よくできた人だと認めてくれたが、事あるごとに、キヨミの服装をけなすのは、やめてもらいたいと頼んではいる。

 とはいえ、キヨミは決して美しい女ではないことも事実だ。でも、家事も子育てもしっかりやってくれるし、仕事を持って家計も助けてくれるし、こういう時でも頼りになる。ボクとしては、文句は一つもないのに、母が時々キヨミを傷つけるようなことを言う。やめてくれと頼むとしばらくの間やらないが、また何かで失言をするということの繰り返しだ。今日もきっと、ボクが帰宅する前に、母がキヨミに何か言ったんだな、と思う。

 

 キヨミは、既に打ちひしがれてしまったようで、助手席で時々目元を拭いた。

「大丈夫だ。まだ遠くには行ってないよ。電車に乗ったなら、監視カメラがある時代だ。絶対大丈夫だよ」

とキヨミを励ましながら、こんな会話をしていること自体が、信じられなかった。悪夢の世界に迷い込んでしまった自分を、別の自分が遠くから見ているような、奇妙な感覚を味わった。

 

 警察というのは、面倒くさい場所だ。今時、紙ベースの仕事はしていないだろうと思いきや、やはり、ボクとキヨミの手書きの署名を取るために、結局、紙が出て来た。それでも、きっと昔よりは、遥かに、行方不明者の捜索の対応が速くなったのだろうと思う。失踪人届に最低限の連絡先と署名を記入した後は、ボク達の話を聞きながら、次々と画面にデータを入力し、検索も同時にしているような感じだ。調書を取るというよりは、データ入力の仕事だ。これを「取り調べ」というのかな。

 一通り話を聞いてくれた警察官が、娘の電話機のロックを解除できるか技術者に聞き、別室から電車の各駅に順々に電話してくると言い、娘の電話機を持って、席を外した。

 キヨミと二人で、取り調べ室に残され、無言で茫然としていた。

 時々、ほろりと涙を流すキヨミに、

「泣くなよ。無事に帰って来るんだから、けろっとした顔して」

と言った。そう言いながら、もし、帰って来なかったら、ボクらは、これから、一生、すべて、何もかも、元には戻らないのだという思いが頭をよぎり、慌てて否定する。そんなことを考えてはだめだ。絶対に、無事に帰ってくるのだから。

 ボクには、うん、と返したキヨミも、青い顔をして、既に最悪の結末を想像しているのだろうか。

「そんな顔するなよ。君は悪い方に考え過ぎなんだよ」

と言うと、

「そうだね。そうだよね。でもね、今日、ほんとに可愛いドレス着てるの」

と言い、また泣き出してしまった。キヨミが手放しで泣く姿を見るのも、アネシュカが生まれた時以来だ。

 今日は、ボクらの普通の人生の最後の日なのか。この先は、もう、取り返しのつかないことが起きた後の、地獄だけが待っているのか。


 その時、先ほどの警察官が、にっこり笑いながら入って来た。携帯電話は簡単にロック解除できた、という。それより何より、アネシュカによく似た女の子が、今さっき改札を通って出て行ったと、うちの最寄り駅の駅員が教えてくれたそうだ。服装と背格好からして、ほぼ間違いない、という。

 ボクらは、音を立てて立ち上がった。

「早く行かないと。駅からの帰り道、暗いから」

とキヨミが言い、心得顔で、

「警察車両で行きましょう。あなた達が信号無視をしたら、こっちが困るから」

という警官に付いて、どかどかと警察の廊下を駆け抜け、パトカーに飛び乗り、制限速度二十キロ以上オーバーで飛ばす車の窓から、飛び過ぎる見慣れた街並みを見ていた。

 夜になると人通りがめっきりなくなる住宅地の幹線道路は、車もまばらで、サイレンを鳴らす必要もない。交差点に差し掛かった時だけ、警察官がボタンを操作して、サイレンを数秒間鳴らし、赤信号を無視して進入した。アネシュカが恐らく十分ほど前に電車を降りて改札を通った駅を左に見て、四車線道路から自宅まで続く二車線道路に入り、こちらも制限時速オーバーで飛ばす。

「あ、居た」

とキヨミが叫んだ。十数メートル先の歩道を、白っぽい人影がとぼとぼ歩いて行く。あれが娘のアネシュカだと、いち早く認めたキヨミの目は、ボクより視力が良いのか、それともこれが母の直感というものなのか。

 パトカーの警光灯の青い光と、幅寄せしながら急停車する車の気配に怯えたように、アネシュカは振り返り、走り出した。完全に停車するのも待たず、ドアを開けて飛び出したキヨミは、どこにそんな体力があったのかと思うスピードでアネシュカの後を追いながら、

「アネシュカ、お母さんよ!」

と高い声を出した。

 アネシュカは足を停め、振り返り、今度はキヨミの居る方に走って来た。車から降りて数歩走ったボクから、少し離れたところで、キヨミはアネシュカを抱きとめ、抱き締めた。

「警察呼んじゃったの? お母さん、なにこれ」

「心配したのよ」

「心配し過ぎだよ」

などという声が聞こえた。パトカーに歩み寄って来るアネシュカのばつの悪そうな顔と、キヨミの泣き笑い顔を見て、警察官は、

「じゃあ、お宅までお送りした後、あなたか奥さんのどちらか、署までお連れしますからね。車を署に置いて来たでしょう」

と言った。

 後部座席に乗ったアネシュカの肩に腕を回し、キヨミは涙に濡れた満面の笑みを見せた。助手席に座ったボクの隣で、警察官は、

「何もなくてよかった。何もないのが、わたしらにとっては一番いい結末なんです」

と独り言のように言った。

(つづく)

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