憑かれていたあの頃
はて、いつの頃から「忙しい」という概念が生まれたのだろう。日本人がせかせかした暮らしをするようになった歴史的変化は一体何だったのか。
また、忙しいことは良いことなのか悪いことなのか。賛否あるだろうが、ぼくは忙しいことが善で、それがデフォルトになっていて、忙しくないことが悪と考えるような社会になっていたら、こりゃやべぇ、、と思ってしまう。
忙しいと、昨日の日記で触れた”ストレッチ”をしにくくなる。自分が考えたいこと、考えるべきことを考える時間をつくれなくなるのは、じつは非効率的だし、一人の人間としてどこか本末転倒なことをしてるじゃないかという気にもなる。さみしいことだ。
また、余裕がなくなって(こういうときほど、人間性が露呈して)、カリカリしがちになる。感情は感染しやすいので、負のスパイラルも生まれやすくなってしまう。忙しいのに自分(たち)の忙しさにすら気づけてなくて、流れに呑み込まれきっている状態が一番こわい。
冒頭の「いつの頃から」という疑問だが、少なくとも、江戸時代にはその概念があったことは、「いそがし」という妖怪の姿から確認することができる。
これは、去年まで別名義(水木しげるのパロディ)で「暮しと妖怪の手帖」という連載コラムを書いていたときのもの。今振り返ると、おそらくぼくも妖怪「いそがし」に憑かれていて、暮らしに疲れていて、それを自覚を持ちめはじめたくらいのときに書き上げた記事だったのではないかと思う。
選択できているように見えて、選択できていない今を変えるには、まず気づくことからなんじゃないのかな。
自分で書いたにも拘わらず、自分の言葉にウッとなることってある。当時の気づきをもとに、暮らしの拠点を変え、今鳥取にいることは、ちょっとした成長なのかもしれない。思考から行動へ、小さな成功体験の一つとしてコレクションしておこう(やったね)。
そして、10月にはいよいよ妖怪検定上級受験が控えてるわけだから、もうちょい妖怪のことを考える時間を増やさなきゃね。ぼくの暮らしのどこに妖怪を考えるシカケをつくろうか......。ああ、まずはそれについてじっくり考える時間をつくるかな笑。
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