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まち(地域)に関わるとき、場をつくるとき、ぼくが大切にしてること。

夏がいよいよ近づいてきた。日の長さ温さ、ぐんぐんと生い茂る草木、それにより元気になる虫たち。ホタルをちらほら見かけ、クワガタが突然現れたり、自然界の生き物によって、季節の変わり目を感じる。

さてさて、今朝は来客があった。大山町の地域活動についていろいろ意見交換ができたら、、という理由で、役場からまちづくりの担当者がいらっしゃる。若々しくて、気さくで、えらく好感が持てる方だった。

今町内で分けられた地区ごとに自主組織をつくって、拠点を持ちながら、地域を盛り上げるための活動が広がっているそうだ。活動資金も含め、町からサポートはあるが、最終的には持続可能な事業としてどう育てていくか、とうのが目標らしい。

いくつかある地区のなかでもぼくがいるのは名和地区なのだが、実は、ここは拠点は定まっているものの、未だに自主組織が立ち上がっておらず、地区内の人がつどい、賑わいをつくるためのシカケがなされていない場所とのこと。そういう制度、町の動きがあるだなんて知らなかった.......。

組織作りに向けて集まっている人たちは、農家さんを中心にした、60代前後の方が多いなか、わりかし若くて動けるぼくが声かけられているのは納得がいく。彼がいうには、ぼくがやろうと思っていることと重なることがあるのならそのプラットフォームを使って進めることもできるよね、ということだった。決してわるい話じゃない。むしろ、いい話。

たとえば、地域のおじいちゃんおばあちゃんの聞き語りをしてアーカイブづくりはしたかったし、彼らの知恵やてしごとの技をワークショップに落とし込んでいくこともしたかった。農家さんが多いエリアだからこそ、彼らがつくったものを加工しデザインを整えて六次産業的にプロダクトづくりだってできたらしたい。やれることはいくらでもある。

ただ懸念点がパッと思い浮かんだ。ふたつあって、まず一つは関係性の話だ。こっちに移り住んできたばかりで若者であるぼくがどれだけ出しゃばれるのか。すでに集まっているメンバーとの顔合わせがあり、人柄を知り、実際の活動における温度感を知らなければ、関わり方が見えてこないというのが本音のところだ。

もう一つは、ぼくの「やりたい」は二の次でいいと思っているということ。地域内の人たちが何が困っていて、何があるとうれしいのか、ヒアリングして、ニーズを掴んでからじゃないと動きにくい。地域の人の困りごと、望みありきで、ぼくの「やりたい」と重なればやる意味も出てくる。当てずっぽうに仕掛けるよりも、そういうアイデアの種を拾うための場を設けるのが一番最初にできればいい。

逆にいえば、だれの「やりたい」と思っていたことを引き出して、サポート側で背中を押しながら、一緒に進めていく役目のほうがぼくは向いているし、そっちのほうが好きだったりもする。

東京千駄木で小さな商店街づくりに関わっていたときも、沖縄で「水上家(水上学舎)」という場を運営していたときも基本的な考え方は同じだった。ぼくの「やりたい」は貯金し引き出しにしまっておいて、だれからの「やりたい」「やれたら」と重なったときに、やっと取り出して、動きへと向かうイメージ。

さっきの二点を担当者に伝えて、まずはそこからですね、関われるところがあったらぜひ協力させてください、と続けてぼくは話した。別に「まちづくり」に関わりたいわけでない(むしろ「まちづくり」を声高らかにいう人が苦手なくらいで)。

ただ、自分たちが暮らす地域に足りないものを補えたり、地域内外からおもしろい人が集まってくる流れができるのは、自分の暮らしをよりよくすることにつながるし、どこかで思った「あれやりかった」に取り組めるのはありがたい話だ。

たがいに、だれも消費することなく、自分たちの暮らしを守りながら、その暮らしの延長線上で、むしろモノ・͡コトなど何か生まれるように。よいバランス感覚で、これは取り組んでいければと思った。さて、どうなるやら。いつのまにか、町の一人になってきているのだなぁ。実感。

すこしひんやりとしてきた。あ、もうすぐ梅雨か。

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