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いけずの散歩道

 淳ちゃんはいつも突然で、嵐のような誘い方をする人でした。そこに一切の悪気はなく、自分のことに一生懸命なだけで、それは淳ちゃんの好きなところでもありました。私はもともと人に興味を持たれるのが苦手だったし、勝手に期待されて勝手に失望されるのが何よりも怖かったので、こうして誰かとお付き合いをする日が来るなんて、今でも少し信じられないぐらいでした。
「来週末、スクーリングがあってさ。お前も来るだろ?」
「一応希望休は出してるけど……」
「なら、決まり。夜は一緒に食べれるから、良さそうなお店探しといてよ」
  淳ちゃんは不思議な人でした。向こうから告白してきたくせに、私のことなんてこれっぽっちも見ていなくて、だけど、とにかくそばにいたがるのです。
 それに、淳ちゃんは特別忙しい人でもありました。仕事の合間、通信制の大学に通っていて、何かの資格を取ろうとしているらしく、スクーリングがあるときには、キャンパスのある京都まで一緒に行こうと誘うのでした。
何を目指しているのか知りたくて、何度も質問してみたのですが、淳ちゃんは詳しいことを教えてくれません。
「授業の間、私は何をしていたらいいの?」と尋ねても、淳ちゃんは私のことなんてこれっぽっちも興味がないので、「まあ適当に」と言うばかりです。
 淳ちゃんは、すべてお見通しでした。私は集団行動が苦手で、一人で過ごすほうが気楽なのです。だから、京都でひとりぼっちになるのは全然苦ではなくて、むしろウキウキするぐらいでした。
 それでも、そっけないふうに扱われると、心がぎゅっと寂しくなりました。私はすっかり淳ちゃんの虜で、どうせ京都に行くなら一緒に過ごしたい、と思うようになっていたのです。
 淳ちゃんと私はよく似ています。お互いに自分のことしか興味がないから、適度にほったらかされていたいところなど、ぴったりでした。

 京都駅に降り立つと、淳ちゃんは市バスの一日券を二枚買い、私の手を引きました。目当ての乗り場は少し遠くのほうにあるため、人混みではぐれないよう、手をつないでくれるのです。淳ちゃんの暖かくて湿っぽい手に包まれると、私はすごく満たされた気持ちになりました。
 スクーリングのときは大学の前で解散することになっていたので、淳ちゃんは私のどこが良かったんだろう、と考えながら手を握り、一時間ぐらいバスに揺られていました。

 朝の冷たい空気の中で淳ちゃんを見送ったあと、少し時間をつぶしてから、小川珈琲へ行きました。
 私はひどい方向音痴なのです。本当は四条のほうへ行ってみたかったけど、夕方には授業が終わると聞いていたので、待ち時間は本を読んで過ごそうと決めていました。
 京都で読むなら川端だろう、と安直に、読み切れるだけ薄いものを、と選んだのが「古都」でした。
 けれど、席に着いて本を開いてみれば心許なく、「もっと厚い本を持ってくればよかった」と後悔しました。そうして、お店の雰囲気よりどれだけ時間をつぶせるかに固執している自分に気が付いて、もっと嫌になりました。

 文庫本の文字は小さくて、私は何度もあくびをしました。一行読んではスマートフォンで時間を確認し、ため息をつくのを繰り返しては、コーヒーのお代わりを頼みます。
 ああ、なんだか私、淳ちゃんと別れたいかも……。
 そんなことをぼんやり考えながら、肩をぐい、と開いて伸びをすると、誰かが後ろを通る気配がしました。
「えらい腰据えてますね」
 声をかけてきたのは、最初に注文を取りに来た店員さんでした。
「あ、すみません。ご迷惑ですよね」
「いやいや。あなたみたいに若いお客さん、あんまり一人で来うへんから、気になってね。何を読んではるんですか?」
「川端康成の古都です。せっかく京都に来たから、ゆかりのある本が読みたくって」
「なんや、おしゃれやなあ。旅行で来てはるの?」
「恋人を待ってるんです。来るまでは一緒だったけど、今は自由時間というか……」
「へえ。そうなんや」
「十七時には授業が終わるって言ってたから、遅くとも十九時までには会えると思います」
「県外から来てはるんでしょう? あなた、随分と健気やねえ」
「いつもこうなんです。まあ、案外楽しいですけどね」
「僕やったら嫌やなあ。うちみたいな店に、おはようからおやすみまで居座られるのも複雑やし……」
 店員さんはそう言って、ワックスで整えられた頭をぐしゃぐしゃ掻いてみせました。長居をするのはよくないことです。私は、早急に立ち去らなくてはいけない、と冷や汗をかきました。
「どこか観光でも行きはったらいいのに。僕、もうあがりやし、良かったら案内しますよ」
 ほんの一瞬、眼鏡の奥がきらりと光ったように見えました。この人、ちょっと楽しんでいるのかもしれない。直感的に、そんな気がしました。
「本当ですか。じゃあ、北山杉を見に行きたいです」
「中川かあ……時間的に厳しいかもなあ。祇園のほうならええけど」
 そうして、じろりと目線をさげて、顎をちょいちょい動かしてみせました。私はハッとして、開いていた本を閉じました。

「なんや、口説いたみたいになってしもたね」
「いえ、こちらこそ無茶を言ってすみません」
 白シャツにカーディガンを羽織っただけなのに、退勤後の店員さんは別人のように見えて、心臓がぴりっと痒くなりました。
「もっとオシャレしてくれば良かったです。誰かと歩く予定じゃなかったから……」
「そうかなあ、気にしすぎとちゃう?」

 二条城を素通りして、私たちは広いお庭のような道を歩きました。
「一人で来たみたいに言うけど、夜は一緒に食べはるんやろ?」
「夜だけね。こっちは楽しみにして、丸二日休みをとったのに……なんかバカみたいって思います」
「寂しいって言えばいいやん。じっと黙って愚痴言ったって、しゃあないやろ」
「ちゃんと言ってますよ。でも、私の声なんてひとつも届いてない。全部自分の都合ばっかりで、淳ちゃんはいつもそうなんです」
 つい口が滑って、顔じゅうがカッと熱くなりました。目の前にそびえたつ大きな鳥居ぐらい、赤くなっていたと思います。
「はあ。淳ちゃんさんのこと、嫌いなんやねえ」
「違います。嫌いだったら、こんな寂しい気持ちになりません」
 私はそれ以上、何も言えなくなってしまいました。ゆるい坂道を歩きながら、しばらくのあいだ無言でいて、何を話そうか悩んでいましたが、青蓮院の門前にたどり着くと、大きな楠に圧倒されて、わあっと声が漏れました。
 店員さんは、目尻にしわを寄せてへらりと笑いました。それを見て、心臓がまた、ぴりっとうずきました。

 東山三条までぐるりと回ったあと、「何かご馳走しましょうか」と尋ねたら「八坂さんで厄除けぜんざいを食べはったらよろしい」と笑われました。店員さんは終始からかうような素振りでいましたが、最後はきちんと、元いた白梅町まで送ってくれました。

 帰りのバスに並んで座ると、私はすっかりドキドキしてしまって、どうやって別れの挨拶をするべきか、ぐるぐる悩んでいました。
 いっそこのまま連れ去ってくれたらいいのに。そんなことさえ考えてしまうほど、店員さんに夢中になっていたのでした。
「あの、今日はありがとうございました。私、やっと京都に来てよかったって思えました」
 ぴったりの言葉が見つからず、ぎこちないお礼しか言えなくて、私はなんだか悔しくなりました。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、店員さんは飄々とした顔で、「あんじょう、おきばりやす」と手を振ってくれました。

 カーディガンの後ろ姿が小さくなるにつれ、心の中にあった淳ちゃんの顔や体温が、じわじわとかすんでいくように思いました。


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