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感情の墓場

どうしようもない鬱の日、自分の感情をどこにぶつければいいのか分からくてそんな夜はたくさん音楽を聴いてnoteに気持ちをぶつけるか絵を書き殴るか自傷しか出来ない。
自分の抱え込んでいる問題だからかもしれないけど人に話をして根本的なスッキリなんかできない、とってもとっても救われるけどねありがと。
お酒飲んだりODしたり我を忘れてる時にしか人前で泣けないし話したりできない虚しさ、ここまで私は人を信用することが出来ないのかなって。周りに鬱がファッションじゃないのかって思われる怖さもあって話せない。
躁鬱ってずるいよねって思う、ありえないくらい元気な日もあるし外に出れないくらい鬱な日も両方存在してて世の中の楽しさも知ってしまってるから簡単に絶望もさせてくれない、あいつらは生きることに僅かな希望を持たせてくる。いつ鬱になって躁になるのか自分で予想できなくて、躁だった5分後急に鬱になることもあるから飼い慣らすことの出来ない二重人格みたいな、ね?

急な話の転換だけど芸術のセンスって元から存在してるものじゃん?それって生まれての才能なわけだけど人工的でもセンスを作ることが不可能なわけじゃないと思うんだ〜、沢山のことを経験すれば自分の中のアイデンティティも確立してくるし世界の見え方も変わる。
解剖学と絵への探求心で人体の構造を理解したいがために人の墓を勝手に掘り起こして何度も捕まる画家がいることや、もっと音楽や芝居を追求するためにドラッグをしたり永遠に刺激的な恋愛を繰り返している音楽家や俳優がいるように。
芸術家に鬱病が多いのは感受性が豊かで世界を周りよりも知っているから普通の生活ではもう満足できないし、生きがいが芸術だから健常者になったらなったで今のこの感受性を無くすことが怖くて治したい反面これを失いたくないで負のループに入っているのかなと勝手に予想してる。
芸術的センスを手に入れるってことは闇に手を染めないと分からないことやリスクが多くてセンスを作る、持つことはどうしても避けられない鬱があるけど私は探究心がどうしても勝ってしまう、いけないことだって分かっても。
まあ知らないより知ってることのが多い方がいいよねってことだよ^-^
元からそれ以上のセンスを持っている人にはどうしても勝てないしこうやってセンスを補っていくしかない、私には何も無いから。
今の私には死んでもいいと思えるほど好きなものなんてないし努力できるほどの集中力もない、別にいいじゃん?って思うかもしれないけど私にとってはそれって結構きつい。一生かけてもいいくらい好きなものがないと生きがいを感じることが出来ない、まだ見つけることが出来ていないから生きがいを見つけることが生きがいになってる。
だから芸術家がすき、物は探求に終わりがあるしセンスがないと追いつけないことも多いけど人間は関わっても関わっても私に分からないことを沢山教えてくれて永遠にその人のことを理解させてくれない、技術もセンスも関係ない感情を使って探求させてくれる。
でも人間は探求が終わる前に関係が終わってしまうことの方が多い、その人を失ってしまった時に私の生きがいは終わってしまう。

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