歴史と政治と自分と

 僕は歴史というのは外から見ているから面白いのだと思っている。外から見る分には面白いがその渦中にいると考えるとゾッとする。例えば、僕は第二次世界大戦の技術者が好きで、あの中で生み出された兵器には敬意を覚える。だが、自分がそこにいて自分の労働力が戦争という人類史の中でもっとも非合理的な行いに使われるというのは我慢ならない。おそらくだが、軍事ヲタクと呼ばれる人たちも自分が戦争に行くという想像はしようがその時代に行き本気で戦場に出ていきたいと思う人もわずかであろう。
 そして、僕は今のテレビやマスコミ、特にニュースが嫌いだ。それは、単に今の世の中が夢であってほしいという願望からではないと思う。ニュースを見るたびに国会や政治家たちが動いていることによって自分が何もできないところで決定され、その決定が自らに影響が与えられると考えているからだ。
 国会という閉じた箱のなかから世の中を見据え、そして自分やその他の人々を決定するということはすなわち自由ではないと思ってしまうからだ。最近の例だと、青少年育成法が改悪されそうになったことだ。国会という閉じた箱のなかから表現の自由が制限される恐れがあった。僕は恐れた。なぜなら、表現の自由がなくなるということは考える自由がなくなるということになるからだ。
 表現の自由というのは為政者にとってはどの時代に置いても頭痛の種だ。表現が自由があるということはどのような表現においても為政者は口出しすることができないからだ。為政者に対する文句を書くのも、公序良俗すれすれの表現も容認してしまえばその国は乱れると為政者は考えるからだ。
 しかし、表現する自由を奪っては面白い作品、優れた作品が生み出されないことも事実だ。表現が規制されてしまえば、今存在する作品たちもいつ何時為政者の機嫌によって消されてしまうのかがわからなくなる。それは表現者にとって人から水を奪うのと同等だ。
 そして、表現ができなくなるということは考えることもなくなる。表現をするためには考えるという行為が重要に鳴ってくる。表現するならば考えなければならないということになる。もし仮に、表現の幅が制限されることがあれば、それはすなわち考える幅を減らすことになる。
 僕は考える自由がなくなることは、自分が人間をやめ猿になるのと同等だと考えている。考えることがなくなれば確かに楽であろう。ただ与えられた物を食べ、与えられた仕事をし、与えられるがままに死んでいく。自分が動物園の猿のようになることは誰も望んでいるはずがない。
 僕はただただ自由でいたいと思っている。純粋に何を考えていても邪魔されない。そのような果のない自由だ。ニュースがそれを邪魔するのならば見たくない。歴史を好きに解釈する自由も、物語を好きに考える自由も、批判する自由もなくては生きた心地がしない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?