見下していた明日12

さて、子供達は皆、丸出しの尻を鞭で叩かれて教育される様に成った訳だが、
ここで幾つかの説明して置かなければなるまい。
まず最初に、親と子の関係である。
基本的に血縁関係であり、親と子が互いに望んでその関係の継続を
望むのであれば、以前の世界と同じ様に親子関係は成立するものであるが、
それは稀なケースであり、大抵の場合は
他人同士で親子関係は結ばれる事と成った。
と、言うのも、実の親、或いは実の子のどちらかが
生き残っているケースはレアであり、
生き残っていてもどちらかが(大抵は子の方)拒絶すれば親子関係は成立しない。
無法の世界において、赤ん坊の時に死んだ者も同様で、
大抵は他人が養育を行う事と成った。

しかし。
人間とは不思議な者である。
肉親であればいがみ合うであろう場合も、
他人の方が慈しみを感じて接する事の方が寧ろ多かった。
これは、自分で子供を育てる事を選択している、という点が大きいだろう。
無法の世界において、望むと望まざるとに関わらず、
性交をすれば子供は出来る可能性があり、
避妊せずに行った結果、「仕方無く生んだ」「何と無く育てられる気がした」
等の理由で生まれてしまった子供も多く居た。
だが今回は違う。
育てるか育てないか。それは完全に自分の選択なのである。
また、子供にとっても、自分で判断可能な年齢ならば
「親を選べる」のである。
養育と被養育の自由である。
無法の世界は、この人間の根源的自由を一切可能には出来なかった。
それはつまり、人間が神を超えられない事、
所詮は設計されただけの生き物である事の、何よりの証明であった。

統治の世界においても、学校は存在する。
しかしながら、無法の世界における学校とは多々違う点が存在する。
まず、日教組が存在せず、それに相当する教師の利権組織も存在しない。
教師は一般の大人達である。
全ての大人は皆、それぞれに得意分野があるから、
全ての大人は教師なのである。
そこには、「おっさん」「おばさん」「ジジイ」「ババア」「老害」等と
のたまう馬鹿な子供は最早存在しない。
存在したとして、その子供には丸出しの尻を鞭で厳しく叩くお仕置きが
待っているだけである。
家庭での教育の延長が学校でも行われ、
子供は尻をいつでも丸出しにして貰う事が出来、
いつでも尻を真っ赤に成るまで叩かれる愛のある教育が行われる。
また、子供を隠す教育はいじめを生む温床であった為、
子供を隠さない教育が徹底される。
一週間に一度、男の子供も女の子供も、尻と尻の穴と性器を露出した状態、
即ち下半身裸の状態で一日を過ごす日が設けられた。
それは「おしりを隠さない日」と呼ばれた。
それは事前に回避出来ない様、いつでもその日を迎えられる心構えを付けられる様、
一週間の内の一日がランダムに選ばれ、子供は皆、
朝起きてから寝るまで、下半身に何も付けずに過ごす。
靴下等は履くが、臍より下、腿より上に何かを付ける事は許されない。
それは厳しく尻を鞭で叩かなければ成らなくなった。
子供の尻を隠さない、それは全ての大人達に見守って貰える、
そしてそんな下半身を隠さない状況でも自分達は護って貰えるという、
何よりも深い安心感を子供達に与えた。
そして、子供が服を着て居る事は、当たり前では無い。
護ってくれる大人が居てくれてこそ、なのだ。
それを子供が忘れてしまったから、大人を侮り、大人を殺そうとする子供が育つ。
大人と子供の違いをしっかりと付ける。
これは、人間という生き物に於いて、とてもとても大事な事である。

また、トイレには男子用も女子用も仕切りや壁は一切無く、
子供達は皆、脱糞も放尿も隠さずに行う事が出来た。
これにより、子供はトイレで誰かをいじめる事が無く成った。
そして、誰もが子供は「尻から便を出す、皆同じ人間という生き物」
という、最も基本的な人権を学ぶのである。
排泄を見られるという事は、子供にとって
「大人を信じる」「友達を信じる」
という事に他ならない。
初潮や精通を迎える前の子供達は本来、尻や性器、排泄を見られる事を
羞恥と感じる事自体が異常な事である。
「社会性」という欺瞞の満ちた言葉に裏打ちされた、
「子供を隠す」という悪しき考え方が、子供達に不要な羞恥心を与えた。
子供を隠せば、それだけ子供を強姦しようとする、
子供を性的虐待しようとする大人達にとって、襲うチャンスを与えてしまう。
隠さなければ、大人の目、そして子供の目、それらに常に晒されて、
子供を襲う機会は激減する。
「子供を隠さない」
それが子供の事を最優先に考えた、最も有効な子供を守る手段なのだ。

そして、子供には定期的に一斉検便が行われた。
子供は男子も女子も、教室で一遍に尻を出して、
教師である大人に直腸を調べて貰う。
これは健康には欠かせない事で、検便をしなくて済むという事は、
裏を返せば子供達が薬漬けの食べ物を食べさせられて居るという、
何よりの証拠なのだ。
健康な食事を与えられているのなら、必然的に子供の検便は
絶対不可欠であると言える。
また、直接採便だけでは無く、定期的に浣腸を用いた便の採取も必要だ。
正確な健康状態は、実際に出した物を調べるのが最も肝要。
ならば、子供達には週に一度は、学校で一斉に浣腸を与えられる機会を
設けるべき、と成るのは必然であった。
子供達は皆、自分で尻の頬を外側に引っ張り、
「御願いします。」
の言葉を述べて、直腸にガラス棒を挿れて貰い、調べられる。
大人の子供の信頼関係は深く深く紡がれ、
日教組の様な子供をいじめ殺す連中の居場所は無く成る。

学校は最早、傲慢な大人の為の場所では無い。
子供達の為の場所、本来の学び舎へと戻されたのである。

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