おそ松さん第二期24話感想

いよいよ最終回間近の24話。思えば一期の24話もチョロ松の急な就職で我々を大いに戸惑わせてくれたものなのですが、今回も公式予告のキャプ画や解説からしてかなりシリアスな話になるのではと予想されていました。

実際予想通りのシリアスで一期の24話と対になるような作りなのですが、似たような事象を描きながら24話とは内包するものやシリーズ中での意味合いが全く異なっている……、そんな二期24話です。

今までの二期の話の総決算と言えるようなストーリーとも言えるかもしれません。感想今まで以上に長いのですが覚書なんで読みやすさとか考慮せず好き勝手書きます。相変わらずネタバレ全開でいきます。

本文中の『』内にある日付つきの引用は当時ツイッターのものです(誤字脱字や二次創作的コンビ名などは訂正しています)。

冒頭はいつも通りの松野家の怠惰な生活ぶりが描かれます。作画がとってもキレイ。何気ない日常の様子を描写しているのみなのに動きもぬるぬる。今回は松さん歴代でも主力級のスタッフを集めているだけに、かなり力の入ったアニメーションなのを感じました。

無責任で変わらないいつも通りの六つ子たち。町は陽気が溢れ、桜のつぼみもほころび始めるころです。暇を持て余したニートたちは花見の相談をしたり穏やかな空気なのですが、トド松のスマホに電話が入った辺りから事態が急変します。

父松造が突然倒れて入院。先ほどまでの呑気な空気が一変するのです。

父が倒れたことをきっかけに自立を考え出すニートたち。単純に「自立」というテーマだけを考えれば1期24話を彷彿とさせますが、突然のパンデミックといった感だった一期とは違い何もかもゆっくりとしていて、そこに妙なリアルがあるのが二期の自立です。

まずきっかけとなった松造の病気ですが、これが急に死んだりするような重篤なものではなく、今回の病状だけならすぐ退院できる程度のものであるというのが逆にギャグアニメにおけるこういう話のきっかけとしては生々しい。

そして今回は自立の口火を切るのがおそ松なんですよね。前回の自立話の際は断りなしにチョロ松が先陣を切ったため納得できないおそ松が大荒れする結果となったのですが、あの一期を経て今度はおそ松が腹をくくったという事実は重いです。

思えばこの二期、おそ松はことある事に「このままじゃまずいと思ってる」「ちゃんとしなきゃいけない」というような意味合いの事を言っています。これは一期ではなかったことなので印象に残っています。二期一話にしても「ちゃんとする」という言葉が大きなメインテーマですしね。二期おそ松は一期と違いこのぬるま湯の生活が意識して努力しないと維持できないものである事を知っているし、その生活にタイムリミットがあることもおぼろに感じ続けていたのです。

長男の決定はストーリーの主軸。それを他の松たちもちゃんと分かっている描写が入るのになんというかまたメタっぽいものを感じますね。長男がそれを言ったらやるしかない。モラトリアムは終わりだという。

そしてここで空気を変えるのがカラ松。一期までのカラ松と違うなって思うのが「流れを止めるようで悪いが」と前置きするところ。何だかんだ言って意外と周囲の空気を読めるカラ松ですが正しい言葉にすることはあまりできてなかった。この回のカラ松は自分の個性というものを正しく使えていて一期とは全然違いますね。

そして一期では弟側に立っておそ松を静止した彼が、二期ではあえてギャグになりそうな流れを止めたことで結果的におそ松の意見を通す事になるのもかなりの違いです。思えば二期カラ松はツートップ発言といい、財布回でただ一人おそ松側に立って事件を見ていたことといい終始おそ松の側に立っていた印象があります。まるでおそ松の持つ重い荷物を分けて持ってあげるかのごとくにです(本人は無自覚っぽいし、自分自身もぶっちゃけたい気持ちがあったというのが一番だとは思いますが) 。

このカラ松の余裕というのはおそ松と違い一期~二期を通して六つ子の一人という以上の確固たる個性を確立しているからこそなんだと思います。実際この話の中でも皆が色々と変化していく中で根本のところはあまり変わってないと一番思わされるのがカラ松なのが象徴的です。それについては語りたい事がいっぱいあれど今回はおそ松メインなので長くなり過ぎ危険ゆえ割愛します。

■一期の24話と二期24話との対比

一期の自立話というのは実際のところ自立と名ばかりの壮絶なギャグの前振りです。いわばエスパーニャンコ回の強力バージョンみたいなもの。前振りが真面目であればあるほど最終回のギャグ(センバツ)が際立つためこれでもかと誇張されています。シリアスではあるんですけど現実的ではない。選んだ仕事や求職ぶりなども何かもっと他にあるでしょ? と真面目に見ればつっこみたくなりますし。一松に至ってはただ家を出ただけで求職すらしてない。

実際本気で自立したいというよりお話の都合でむりやり別離せざるをえなかっただけとも取れてしまう。そもそも自立するからと言って家を必ず出なきゃいけないわけでもないんだし。ただ単にニートたちの最終回に就職話をというインパクト重視の話とも言えます。シリアスっぽく見えてもあくまでギャグの文法にのっとった話なのです。

しかし、この二期の自立話は実に地に足がつきすぎている。いきなりハロワで土下座を始めるでもなく、あてもなく家を出る訳でもなく、まずは家事からできることから。一期24話では存在感皆無だった両親の存在が生々しさを高めています。

やがて、十四松はバイトを始め、トド松は友達のコネを使い工務店的な所に正社員採用、一松はチビ太の屋台の手伝い、チョロ松は資格試験の勉強、カラ松は何か働いてるのか働いてないのかよく分からないけど赤塚外のコミュニティを築いているみたいな状態になります。みんながみんなキチンと就職してるって訳ではないのもリアルだし、選んだ職業も一期のような誇張された悲劇的な仕事ではなくそれぞれに相応しいものです。

そんな弟たちを横目で見つめながらおそ松もバイトを始めます。場所は一期で六つ子全員がローテーションでバイトをしたあの中華料理屋です。

松造が退院してもなお六つ子たちは以前のように松野家に集うことなく一緒の家に暮らしていながらも生活時間はバラバラに。以前六つ子たちが食事をしていたちゃぶ台には松造が座り、おそ松は台所のダイニングテーブルで一人夕食。帰宅した十四松は既に仕事仲間とご飯を食べている……そんな描写はどこにでもある普通の家庭で成人男性の子どもが暮らす家としてよくある光景。それが前半のいかにもギャグ漫画な松野家の食卓と比較して一抹の寂しさを覚える描写です。描かれていること自体はごく当たり前の幸せな一家庭でありながら。

一期24話で自立は別離を伴い皆が不本意な形で変化を強いられたため我々視聴者側から見ても「これじゃダメだ」と思うようなものでしたが二期の自立はあまりにもまっとうで健全。だからこそこちらもそれに対して表だって異議を唱えられない。二期によくある視聴者が六つ子たちに求める事が逆に六つ子たちを成長できない箱庭に閉じ込めているのだというブーメランをぶつけてくるやつですね。

思えば二期一話で視聴者の要望に応じて様々な方向に振り切ってみても結局は燃やされるというのを恣意的に見せたスタッフたち。いわばこの二期24話はそいういったすべての要望をくみ取った「ちゃんとした」アニメというものの集大成なわけなんですが、そこにえがかれた幸せな世界の何とつまらない事か!!

その事を如実に見せつけてくるのが、夕暮れの中長男が一人花見をするシーン。蕾だった桜が満開となる季節にたったひとりで初給料を握りしめ桜を見るおそ松。その桜は冒頭で「もし暇だったら花見行くのもアリだよな」と皆で約束していたもの。あの時から月日は流れ(約一ヶ月か?)約束していた皆はこの場には誰もいません。そして最も悲しいのが薄い初給料の袋を手に無邪気に喜ぶおそ松です。この時点までおそ松は自分自身が「寂しい」とさえ感じていないのです。

そんなおそ松の前に現れるのがギャグアニメの象徴たる存在イヤミです。「久しぶりだな」とおそ松が語る所からして六つ子たちがまっとうな生活をするにしたがって彼との接点が消えていることが分かります。そして現実離れした夢を語り宝さがしに誘うイヤミをおそ松は「明日もバイトあったりするし……」というごくまっとうな理由で断ってしまうのです。

普段のイヤミならここでもっと絡んでくるところでしょうが、そんなおそ松に対し何かをあきらめたように無言です。そのままデカパンやハタ坊たちなどの仲間と一緒に去って行ってしまいます。

この構図どこかで見たなと思ったのですが、前回23話の「ダヨーンとダヨーン」でダヨーンが同僚たちに飲みに誘われるシーンですよ。現実を生きるプロデューサーさんたちとアニメキャラであるダヨーンはたとえ画面上は一緒に居ても同じ世界の住人ではない。だから会社を出た後は同じ所には行けない。それと同じなんです。これはおそ松兄さんが完全にギャグアニメの世界を離れてしまったことの象徴。あの時同僚のプロデューサーさんたちがダヨーンをしつこく誘わなかったように、イヤミもそれ以上誘う事はないんです。だって世界が違うから。

真っ赤な夕闇の世界がまた寂寥感を増しています。おそ松さんにおいて夕暮れの世界は一人置いて行かれてしまう孤独の象徴であることが多いです。終末の予感漂う中、帰宅した松野家には誰もいない。淡々と各部屋を探すおそ松の前に現れたのは子供部屋のソファーで眠る一松です(夜営業のおでん屋勤めゆえでしょう)。

思えばこの二人は一期の時点では六つ子の中でも特に兄弟依存度が強いツートップでした。一期24話でも最後まで家に残ったのはこの二人です。ですから藁をもすがる思いでおそ松は尋ねます「他の奴らは?」と。きっとこの時点ではおそ松は自分自身の孤独を一松なら共有してくれるはずだと思ったのでしょう。

しかし、一松は兄弟の行方について全く知りません。しかもその事を当たり前として受け入れ、おそ松の焦りにも全く気がつくことがありませんでした。そこには一期24話で今川焼を半分だけしか食べられなかった寂しがり屋の一松はもういなかったのです。

自分も含めていつの間にか、得体のしれないものに変化している。「バレンタイン」の回で「多分俺より幸せになることは一生ないと思うんだよね。安心するよ」と言っていた一松の安心できる部分がもう欠片もなくなっていることにおそ松は絶望します。

一期24話が物理的別離だとすれば二期24話は精神的な別離。一期では皆が離れ離れになっていても同じ月を見ていたけれど、二期では六つ子たちは同じ家に住んでいても桜を一緒に見ることはないのです。

■「ちゃんとする」って何だ?

おそ松というのは本当にこのアニメの真の主人公でありタイトルを冠する代表的な存在です。だからこそ特権的な力を持っており時には傲慢なほど我を通すことも許されます。その主人公力が如実に示されていたのが一期八話の「なごみのおそ松」でしょう。あのドラマはおそ松さんにおける各松の役割を実によく表していたコントでした。

でもそれは「主人公」としての強力な枷に対する代償でもあるのです。それ位の強権がないとやってられないってくらいの重荷。主人公には主人公だからこそ許されないって事がいっぱいあるんですよ。

一期のおそ松はおそらく、なごみの力たる主人公特権を何の疑問もなく使いそれが自分らしさと疑っていませんでした。しかし二期の彼には「これでいいのか?」という疑問が常に付きまとっているように思えます。

二期を通じて「親」というものの存在がかなり一期より強調されていますが、各話を見るに「親」というのは単に六つ子の両親というだけでなく「制作者」というキャラクターとしての六つ子の生みの親の暗喩でもあると取れます。二期おそ松は外側からはめられる枠による「おそ松はかくあるべし」というしがらみを抜け真の自分らしさを模索していたのかもしれないなと今なら思うのです。

そう思うと「超洗剤」で自分の個性があまりにもプレーンすぎるのを気にしてた理由がより切ない。おそ松には持って生まれた属性である「主人公」というもの以外の個性が希薄なんです。その事に疑問を持ち始めたのが一期24話を経てのおそ松なのです。だからこそそれならば主人公としての枷なんか知るか! 俺は好き勝手やる!! という。思えば二期おそ松って長男らしいリーダーシップ発揮してるシーン少ないんですよね。なごみの力を封印した故だと思います。

しかし「主人公」は物語を破たんさせるような言動はできないし、破たんさせるようなわき役がいれば枠の中に追い入れる義務もある。いつでも望まれるように「ちゃんとして」なければならない。制作者の、そして視聴者の期待に応えなければならない。

この24話で放り込まれた「松造の病」という制作者によるテコ入れにおそ松は逆らえなかった。そうして最終回間近に相応しい言動をいつの間にかしてしまった。その事に24話終了直前に気がついた。そういう絶望なのだと感じました。

松野家を飛び出し夕暮れから闇夜に変わっていく中、おそ松はかつて六つ子たちがいた場所をさ迷い歩きます。

どぶ川や公園、ナンパ待ちした橋のたもと……一期2話「おそ松の憂鬱」で兄弟たちと出会った場所です。しかしもうどこにも兄弟たちの姿はありません。かつたあった日常はもはやなく六つ子の長男としてのおそ松はただの「松野」という一個人になってしまう。

普段の話では適当にえがかれるモブたちがこの話では逆に鮮明に描かれており、最後におそらく吉祥寺ユザワヤ前と思われる辺りで佇んでいる時にはおそまつの方が名もないモブになってしまったようなそんな描かれ方をされます。明確な個性を描かれなかったおそ松は兄弟たちの存在なくして自我を保てないのです。

このまま終われば一期24話の悲劇再びだったのですがここで女神が現れます。大雨に降られるおそ松に傘をさしかけてくれたのはトト子ちゃんでした。「おそ松くん?」と名前で呼んでくれる身内以外の第三者キャラの何とありがたい事か。この役割は兄弟たちでは出来ないですね。

一期では話も出来ず相互理解のないまま終わったこの二人が二期ではちゃんとお話しできたのは二期16話「となりのかわい子ちゃん」回を経てトト子が成長したから。そして一期の時と違い変化のきっかけを作ったのは長男自身故というところがあるでしょう。

作中で起こるお話の都合に合わせて「ちゃんとする」ことを強いられ、それを仕方ないと思いつつも納得できない部分もあるおそ松。「ちゃんとするって何だよ…知らねーよそんなの」ってぼやきたくなる気持ちも分かります。

というか本当に「ちゃんとする」ってどうしたらいいのか。ギャグアニメとして「ちゃんとする」ってことと、まっとうな人間として「ちゃんとする」って事がかみ合わず結局どちらに傾いても視聴者から文句が出る。どちらにも行っても地獄で明日がないっていう叫びはすでに二期一話でなされています。

二期を総括するうえで「ちゃんとする」って何だ!? って事と、ちゃんとした上でおそ松がそもそもおそ松というキャラのままでいられるの? という内在的な不安がおそ松というキャラの口を借りて赤裸々に語られるのです。おそ松がここまで内面を語るシーンはかつてなく貴重。

「俺…かっこいいかな? 大丈夫? まだちゃんと『おそ松』でいれてる?」とトト子ちゃんに尋ねるおそ松に「おそ松君がかっこよかったことなんてないよ」と答えるトト子。長きに渡り幼馴染として彼を見てきたトト子だからこその重いセリフ。ちゃんとしてようがなんだろうがおそ松はいつだっておそ松でしかなく変わりようがない。実際はどうあれ少なくともトト子ちゃんにとってはそうだということ。その事実だけでおそ松にとっては砂漠のオアシスのような発言ですね。

自分の事は自分で決めたい。でもなかなかうまくいかない。そうぼやくおそ松に「自分の事は自分で決めたら?」とはっきり言えるのはトト子ちゃん自身が16話で形式上のヒロインを捨て、己の意思で今の自分を選んだからに他なりません。キャラクターとしてのくびきを先に抜けた先輩からの激励なのです。

このとても重い話を「つまらなない話」と言いあう二人も良いですね。一見重いようでも本当はなんてことない簡単な事なのかもしれないそう思わせてくれます。

二人が話している間に降っていた雨がやみ周囲にいたたくさんのモブたちが消えているのが象徴的です。この瞬間おそ松は一個人の松野から再び「おそ松」となりアニメ世界に帰ってきたのでしょう。主人公松野おそ松が自分の意思で元の場所に戻ってきたのです!

人によって一期の24話と二期の24話どちらが辛いかというのに差があるようですが、この二つの話は似ているようで本質が全く真逆なのでむべなるかなです。私には自分の意思で問題点に気づきそれに対して真っ向からぶつかろうとする二期の方が前向きな希望を感じます。だから一期のようにスタッフの都合という飛び道具でちゃぶ台が返しするのとはまた違う結末を望みたい(ギャグにしろシリアスにしろ制作者都合に流されるだけのラストは二番煎じだと思うし)。

二期24話の最後「お前らにちょっと言っときたい事があるんだよ」というおそ松のセリフで次週に続くわけですが、一体何をおそ松は言おうとしているのか。「言っときたい」という言い方にかつての強権的なおそ松とはまた違うものを感じますね。来週おそ松が思う「ちゃんとした」最終回がどうなるのかをどんな酷いラストになろうとも見守りたい気持ちです。

最後のカットで、二期で初めて登場した赤塚先生の遺影が意味深で気になります。

【追記】

最初の釣り堀シーン。私は実際に見てないので知りませんでしたが二期開始前の選抜上映会での釣り堀シーンと構図が同じようですね。そしてその際海外留学中でセリフがほぼ無く寝ているような状態だったトド松が突如二期開始の発表をするという流れがあったみたいです。

トド松の口を借りて制作者側がアニメの流れに介入する。もしかしてこれを私たちに恣意的に示すためにあの構図にしたのかなって思いました。やっぱり「松造の病」って制作者側からのテコ入れなのではとより強く感じました。

■最終回はどうなるのか?

まあ予想しても無駄無駄無駄~とは思うのですが純粋に予想ができるのある意味25話未視聴の今しかないので。公式もこんな企画やってるぐらいだし(以下リンク。煽りまくってる……笑)。

絶対視聴者が簡単に予想できるような最終回じゃないからなーっていうふてぶてしさ。分かってる、絶対いろいろ私も言うけど欠片も当たりはしないだろうって事は分かってる!!(だからタグなんて意地でも使わない)。最近やってる松野家電話企画といい最終回に向けて現実とアニメをリンクさせるような演出してきますよね。

二期はやたらとメタフィクショナルを強調する舞台裏演出が多いのでギャグアニメとしては微妙なところが多いですが、ここまで強調するからには最終回にもメタ事情が色々絡んでくるのかなって感じてます。キャラクターとしての六つ子、そしてキャストとしての六つ子、これらがもっと赤裸々に表に出てくる可能性もあるのかなって。アフレコ松さんレベル出てくる可能性もある。これは実際やったら賛否両論になりそうですね。

メタ視点、キャラクター視点両方から見ての「ちゃんとした」おそ松さんになれればそれはまさしくハッピーエンドですが。

後最後に満を持して赤塚先生の遺影が出てきたという事から「原点回帰」という話も考えられます。思えば六つ子に個性が付いたり、松が「さん」になってからのあれこれというのは基本現スタッフによるもので赤塚先生の描いた「おそ松くん」とは異なるものです。

一期の時は赤塚先生をリスペクトしながらもその上に自分たちの個性というものを上乗せしようと必死でした。しかし個性を得たという事で逆に元からあった「六つ子は六人で一つ」という部分が徐々に薄れてきたのも感じます。個性を得るという事が一般的にはポジティブなものとされるため、なんだか無個性時代をネガティブにとらえがちですけど、あれはあれで赤塚先生による「誰が誰でも同じザンス」というハイクオリティなギャグなんです。

二期24話の苦しみは昭和時代のおそ松くんでは六人皆が持っていた主人公格の看板をおそ松がたった一人で持っているからこそ。だったら、再び六人で一つの時代に立ち返るのも悪くないのかもしれない。

そう思うとこの話でおそ松がバイトしてた中華料理屋も印象的。一期ではあそこで六人ローテーションで働いていたんですよ。皆で働くという事であのシーンはギャグになっていたけれど、おそ松がたった一人で働いているのではギャグにもならないし負担は増えるばかりなのです。

今おそ松が持っている重荷を兄弟皆で持ってあげることはできると思う。兄弟たちにはおそ松と違いこの約2年で自由気ままに振舞ってきたゆえに蓄積した個性がありますから。特に、おそ松とは違い主人公特権からも見放されお話の中心と離れたところで役割を与えられない事が多かったカラ松などは逆に二期とんでもなく強キャラに変貌してますもんね……(一松に「どこへ行っても同じ扱い……」と今回評されたのがそれを感じさせます)。今更六つ子ひと塊で行動したところでカラ松のカラ松らしさは覆らないぜって思うし他の松にしてもしかり。

弟たちのそう言った部分がおそ松の助けになればよいと思うし、最終的にはおそ松も自分で弟たちのような自分らしさを見つけていければ花丸ぴっぴな最終回だなっていうのが個人的な希望です。この際締めがシリアスかギャグかなんてことはどうでもいいのです。

『思えば二期は事あるごとに長男がおそまつであることをものすごく意識して演じていたのを感じるシーンが多い
10話での「おそまつってそんなのしないっしょ」とかも私ゾッとしたもん
19:54 - 2018年3月20日』
『シリアスで終わらないで~とか、逆にギャグでうやむやにするとか許せないって我々がキャラに「かくあるべし」を強いるようなことだけはしたくない
「まだちゃんとおそ松でいれてる?」なんてセリフを長男に言わせてるのは間違いなく私たち視聴者なんだから
19:53 - 2018年3月20日』
『おそまつがおそまつである呪縛から解放されるならどんなラストでも受け入れる
二期はそういう話なのかもしれない
個性の話が強調されたりしたのもそういうことなのかな
どんなおそまつでもおそまつはおそまつだし、変わらないよ
長男がカッコ良かったことなんて一度もないってトトコちゃんも言ってた
19:56 - 2018年3月20日』

私がこんな一生懸命考えてる事が木端微塵になるようなラストでもそれはそれ。最終回、寂しいけれど楽しみです。

【さらに追記】

26日午後9時頃追記です。最終回直前に更にツイッターで荒ぶった最終回についてのツイートを追記しておきます。松野家電話についに松造さんが登場し、24話で自分が倒れたことに言及したのです。この松野家電話の世界は確実にアニメとリンクしているということ。それを受けてのツイート群です。

『やっぱり最終回間近に合わせてきた松造さんの電話…
今回公式が現実世界とアニメの世界をリンクさせるような演出してくるのやっぱり最終回に向けての仕掛けなのかなって思うところもある
20:10 - 2018年3月26日』
『「画面の向こうのみんな、ニートたちに声援を送ってくれ!」とか言ってキンブレ振らされてチャントシターが出動するんだよきっと(プリ〇ュア方式)
20:12 - 2018年3月26日』
『二期は結構な頻度でこれは制作者たちの暗喩では…キャラと同軸で円卓会議してるのでは……と思う描写があるので(個人的にニート矯正施設はスタッフとキャラの円卓会議)
20:44 - 2018年3月26日』
『スタッフとアニメキャラでガチケンカしてくれてもいいんですよ?
オメー等勝手なてこ入ればっかりするんじゃねぇ~、俺たちニートは自分のやりたいことをやるんだってスタッフ側にかちこみいれようぜ!!!!!
20:52 - 2018年3月26日』
『一期の自立はお話の都合による自立なんてNOTEでは書いたけどだからと言ってそこでされた自立への決意や変わりたいと思ったキャラクターの心理は決して偽物じゃないんだよ
一期の自立だって本当は別にネガティブなものじゃなかったのにそれをネガに描いたのはスタッフに他ならない
20:55 - 2018年3月26日』
『あげくに「制作者都合」という神の声によってすべてを燃やされなかったことにされたけどあの時の自立も確かにあったんだよ
あれも「自分で決めたかったこと」だったんだよ
でもできなかったんだよね…
20:58 - 2018年3月26日』
『長男は一期で自分の意思を決める前に事が終わってしまいただ後悔だけが残ったのを二期で引きずっていたのかもね
だからこそ今回は率先して自分の意志で変わろうとしたはずなのにそれすらも神のテコ入れという手のひらの上という絶望が描かれたのが24話だと思う
21:00 - 2018年3月26日』
『センバツ上映会の釣り堀六つ子と同じ構図で、眠っているトッティからかつて二期のお知らせという制作者の神の声が告げられたのと同様、今回もトッティの口から神による宣託が告げられていたんだろうな
21:02 - 2018年3月26日』
『24話の最後でそれに気が付いたおそ松兄さんには最終回ではその事についてぜひ不平をぶつけてほしい
一期では制作者側に勝手に壊された物語を、今度は六つ子の側からぶっ壊して!!
21:03 - 2018年3月26日』

制作者側が自己都合で『』偽りのシリアスを描いたあげく勝手に壊してきたのが一期最終回だとしたら、二期では逆に制作者の描いた美しいシナリオに対し「そんなのやってられるか!」ってキャラから引導を叩きつける展開もありなのでは?

かつては壊された物語を今度は自分たちの手でぶち壊す。そうしたらとても素敵な「自分の事は自分で決めた」「ち『』ゃんとした」最終回じゃないかなって。

例え見た目には一期のセンバツと同じような事になったとしてもそこにいたる意思決定が誰にあるかで最終回の結末は全く変わってきます。そこを注視していきたいです。

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