おそ松さん第二期17話感想

今回は結構毛色が違うお話三本+αの詰め合わせです。どれもそれぞれに味わいのある話かも。

アバン:UMA探検隊③

何か知らんけどUMAが出ないパターンもあるんですね(笑)。

今回で最終回だけど重い話の前の箸休めに最高で小話シリーズの中では割と好きでした。なんかこの三人の組み合わせって意外と害がない。イヤミの嫌味が通用しない二人が相手だからかもしれません。

みんなのもこもこ防寒着かわいいなーとかいう平和な感想に終始できる貴重な息抜き話。

Aパート:戒め!

今回の話は一松、十四松の組み合わせ。松野家で突然焼肉が夕食に振舞われることになり皆が大喜びの中、大きな幸せにおびえる一松の様子が描かれます。

一松が普段感情を大きく表さないのには「幸せがあればその裏には不幸もある」って考え方があるからなんだろうなって分かる回です。そんな一松の事を内心ではわかんねーな~と思いつつも否定せず寄り添い、時には一緒に戒めを受けてあげる十四松。こういう奴だから一松も十四松といるのが一番心地いいのでしょう。

しかし「でもうかれてる場合じゃないから。後でこれ(幸福)と同じ分だけの悪い事が待ってるから」という一松は裏を返せば「悪い事があればその裏には幸福がある」と信じているという事だし、それでいてポジティブな考えに普段ならないのは、言い換えれば結構幸運な人生歩いてるからに他ならないんですよね(「幸せが怖い」的な発想は幸せな人にしか出てこないもの)。

幸福と同じだけ不運があるって、よくよく考えれば結構自分に都合よすぎる考え方だと思うぞ!(そんな甘ちゃんなとこ嫌いじゃない)

現実はそんなバランスに満ちたもんじゃないですからね……。特におそ松さんワールドの神様理不尽の嵐じゃないですか(苦笑)。世の中もっと厳しいんだ。

やっぱり一松って斜に構えてるけど世間知らずのぼっちゃんだよねって感じで。十四松くんはそれを否定しないのはいいけど、同時に一松くんが世間の厳しさに傷つくことにすごく過保護でもある感じが萌えると同時に複雑。十四松はかなり意識的に一松をこのぬるいニートの箱庭に囲っているんだなって思いました。十四松自身外の世界出ることをあきらめている人間に思いますし。

とりあえず最後二人が焼肉食べられたのかどうかだけ気になる。取り分が減ったとばかりに二人をスルーする四人が印象的です。特にカラ松。

カラ松は世の中がそんな善意のバランスで動いてない事よく知ってる筆頭だからなぁ(一期五話参照)。何か二期になってかなり考え方言動がシビアになったというか良くも悪くも情に流されることが少なくなったような印象です(二期10話のアレは情ではないと換算してる)。

Bパート:旅館

ガチホラー回でした(涙)。予告のチョロ松のおふざけっぷりから想像もつかない怖い話。完全に通常軸とは別物の話です。性格も年齢も性別も全然違うし。

カラ彦(カラ松)とトド美(トド松)が不倫旅行にやって来た古びた旅館に現れる座敷童のおそま(おそ松)と、そのおそまにかかわる旅館の女将チョロ江(チョロ松)を巡る悲劇が描かれます。ユーモラスなオチかと思いきや最後まで恐ろしく解釈も幾通りもできる複雑な話です。アバンやAパートではメインだった一松・十四松がこの話には一切登場しません。

この話は誰が死んでいるのか生きているのかもうまい具合にぼかしてあって正解が分かりません。またおそまの告白(おっかあのチョロ江がおそまを殺して壁に埋めた)がどこまで真実なのかも不明。だからこそそれをどう解釈するかで幾通りのもの物語が生まれていく不思議な話なんです。

私は物語の主人公である「おそま」の物語が永遠に壁の中という闇に葬り去られ誰も知ることが無くなったというそのこと自体が重要なテーマなのだと感じています。

カラ彦とトド美が逃げた出した後の宿を「お客様が全部いなくなった」というチョロ江。劇中では明らかに他にもたくさんの宿泊客がいたのにもかかわらずなんだか不可思議な言葉ではないですか。

元々旅館自体が幻影のような存在だったとも、お客なんて最初からいなかったとも、あるいはカラ彦たち自体が幻だったとも取れますが真相はわかりません。

私自身はおそまの物語を語ったり知ろうとする人がいなくなったという事がこの物語の終了を意味しているのだと感じました。お客さん=視聴者です。お客さんを脅かして帰してしまったらおまんまが食べられなくなる、というチョロ江の発言は要するにテレビを見ている視聴者に対して驚かすような事ばっかりしていたら、誰もアニメを見なくなってしまうよってことなのかも。おそ松さんってそういう話ばっかりだし。

おそまの物語がどんなものだったのか知る由はないですが、ここで思い出されるのが一期24話の「手紙」とそれに続く25話です。それまでのおそ松を巡るシリアスな展開がまるでなかったことのように燃やされてしまった一期のこの物語。それと同じ印象をこのシーンから受けるのは気のせいでしょうか。

一期24話物語の発端と手紙の送り主がチョロ松だった事、その手紙を燃やしたのが物語の「親」ともいえる制作者側都合と言えるものである事、さらには作中でその発火能力がチョロ松のものであるかのように描写(つまり手紙を燃やしたのもチョロ松?)される事。これらを踏まえた上だと、おそまの母親で旅館の女将であるチョロ江がチョロ松に配役されていることに何だか意味深なものを感じてしまいます。

あの時の物語はもう無かったものとして壁に封印しなくてはならないものなんですね。旅館を真っ先に逃げ出すのがチョロ松の次に家を出たカラ松とトド松の分身キャラであることも偶然なのかどうか。そして、一期24話で己の意思で話を動かしたのはこの旅館出てくる四名であり、一松と十四松は皆の流れに追随しただけの存在だったことを考えるとこのストーリーに登場しない理由も何となく察するような。

旅館の女将に殺されて壁に埋められたという、おそまの恐怖の告白に対し『急に何!?すげー怖いよ!さっきまであんな楽しかったのにもう全然楽しくない!今すぐ帰りたい!』とカラ彦が思ったり『なんだこの宿!!』『もう最悪!前半あんなに楽しかったのに!』と言ったりするのは、それまで面白おかしいギャグだったおそ松さんが一期24話で急に現実めいたシリアスに展開した事と重なります。

ただ一期のあの時と違う事もあります。「手紙」回ではチョロ松歓送迎会でふてくされ寿司を叩き落したおそ松ですが、今回の話ではカラ彦とトド美を御馳走で丁寧に歓待しています。そして何より「手紙」回ではまっさきにおそ松の側を去って行ったチョロ松の分身であるチョロ江は最後までおそまにつき従うのです。

「ねぇおっかぁ。おっかぁはおそまのこと好き?」
「馬鹿。んな当たり前の事聞くんじゃないよ」

このセリフもそれを踏まえて聞くとなんだか物悲しいです。一期「手紙」回のチョロ松も決しておそ松の事を嫌いだったわけじゃない。おそ松だって弟たちに無体をふるいたかったわけじゃない。ただ、ちょっとした擦れ違いで道が分かれてしまっただけなんです。その結果それまでの物語を己の手で燃やさざるをえなくなってしまった。今回の話は一期のあの時の失態(と本人たちが感じている事)をまるでやりなおしているかのようですね。

この後も決して表には出られない物語の記憶の中にだけ二人は生き続けるんでしょう。時々ふんわりとその事を思い出す人たちの中にだけ一瞬顔を出しては消えていく。消えた物語の残骸。おそ松さんの面白おかしい物語もそうやって繰り返す破壊と再生の上になりたっているのだと見せつけるかのようです。

とにかく、何とも言えない切なさが残る話です。

色々解釈を書きましたがこれまた読み方の一つというだけでもちろん正解などではありません。見る人によって色々な姿を見せる。そういう方向性を狙って書いたストーリーだと思っています。閉じられた館ということ、人が殺されるというモチーフから一期のなごみ探偵のオマージュを感じることもできそちらの解釈も興味深いです。

Cパート:デリバリーコント

旅館の物悲しい気持ちを引きずりながらエンディングを聞いてたらいきなりこれ。「あーあ。尺が余っちゃった」って勢いよくシコろうとするんじゃない、チョロ松!(苦笑) 二期のチョロ松は本当に開き直りすぎ。

突然始まるカラ松と十四松によるデリバリーコント「本当は賢いヘンゼルとグレーテル」。何気に初デリバリーコントのカラ松がものすごく張り切ってるのが印象的。心なしか豪華なセットはカラ松が張り切って作ったと信じて疑わない。

内容はくだらない下ネタであり、次男と五男の会話になってない会話をお楽しみくださいって感じです。カラ松くんもお尻きれいだね……。

しかし、この「ヘンゼルとグレーテル」。親に間引きの為殺されそうになる話なんですよね。旅館の話で親に殺されたおそまというのやった後にわざわざこの話。

おそ松さんにおける「親」っていうのは要するに製作スタッフたちなわけで必要のない要素、キャラは話によってどんどん間引かれていくってのはあると思います。一期五話のカラ松事変なんかはまさにスタッフにカラ松が間引かれて子殺しされた話な訳ですし。

楽しい雰囲気の中にも毒を混ぜることは忘れないなーって、そんな感想です。




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